「内向型について」カテゴリーアーカイブ

早くも夏バテ

いきなりですが、管理人は早くも夏バテしてしまいました。
熱こそないものの、体がだるくふらついています。

振り返ると、先週はそうめんばかり食べていました。
そうめんは本当に美味しいですが、栄養はそんなにないみたいです。

内向型は独り言が多いイメージですが、実際にそれは当たっている気がします。
体がばてていると何となく独り言や弱音が多くなるものです。

もし、その弱音に周囲が反応してくれないなら、明らかに言いすぎです。
ばてて辛い時には酷かも知れませんが、そういう時は潔く黙りましょう。

では、皆さんもお気をつけて!

飲み会では静かに飲んでいてOK

内向型に自覚のある方はお分かり頂けると思うのですが、飲み会に参加すると周りが盛り上がってくるにつれて自分のテンションが下がる、集中力がなくなるということが起こります。

普段は静かにしている人が、お酒が入っていつも言わないことを言ったりしているのを目の当たりにして、妙に冷静になったりもしますが、そういうことではなくて自然と思考停止しがちになるのです。

で、みんな楽しそうにしてるのに今の自分はつまらなさそうにしているのだろうな、と思う。

なかなかいたたまれません。

しかし別に堂々と静かに飲んだり食べたりしていていいと思うのです。

飲み会は飲み会が好きな人を囲む会であって、別に好きじゃないけど参加する人はその人にとって刺身のツマみたいなものだから、そこに存在することに意義があるのです。

飲み会絶対拒否の友人の気持ちに思い馳せてもいいし、ひたすら飲み食いするのも良し。自分なりの楽しみを見つけること。でも、飲み会で参加者の人柄を知ることもあるので、参加はすること。それで十分だと思います。

敏感になるしかない

内向型は刺激に圧倒されやすい気質です。
なので、騒がしいところなどは得意ではありません。

状況の中で圧倒されやすく、その場における情報量にも圧倒されがちで情報収集がうまくいかない場合もあります。要は空気を読み落とすことがあるということです。

となればどうすればいいのか。

いついかなる時も、状況は刺激的とは限りません。静かな場合も多い筈です。

加えて、内向型=敏感、という考えもあるくらいなので、本領発揮なら空気を読めないことなどない筈です。

だから常日頃の状況では冷静に敏感に空気を読める筈なのです。そうやって日々空気を読んでいれば、騒がしい状況で読み損じがあっても”あの人いつもと違うね”となって信頼を失うなどの致命的な失敗は避けらるかも知れない。

そう思って、周囲に気配りし敏感でいると人付き合いが苦手でも多少はうまくいくものではないかという気がします。

時代の流れ

最近、偶然なのかお気に入りに登録していたブログやテキストサイトが次々と更新を止めてしまいました。

衝撃。

このサイトもどれほどの方が見てくださっているかわかりませんが、pcよりスマホの時代に、長々と文章や画像を載せる時代ではないのかなと考えてしまいました。(更新が遅れた言い訳ではありません。更新はうっかり忘れていました。すみません)

で、内向型は時代に乗れる存在なのか置いていかれる運命にある気質なのか?

内向的でも外向的でも、時代に乗るチャンスはある気がします。内向型は情報を細かく見る傾向にあるので小さな変化を見つけやすいだろうし、外向型なら膨大な情報から変化を見出すだろうと想像するからです。

でもどんなに時代に乗っていても、変化への寂しさは感じるもの。
どうせ変化するなら感傷的にばかりならずに楽しく過ごしたいものです。

些細なことの積み重ね

あたたかく受容された経験があるのとないのとでは、自信の持ちようは全く違うものになると思います。

となると、あたたかく接してくれる両親、兄弟姉妹、お友達、先生、先輩や上司が必要となってくるわけです。

でも出会った人がみんなあたたかいとは限らない。

家族や親戚がどんな人間かは生まれた後の自分には選べないし、その他の巡り合わせも運次第のことはある。

けれど、あたたかく接してもらいやすくすることは出来るのではないか。

誰もがみんなコミュニケーションが得意というわけじゃない。失敗することも多々あるし、それは他人も自分も同じ。
失敗した人を無視するんじゃなくて、ちゃんと相手して返してあげる事。
反対に返事がなかったら、相手になぜ伝わらなかったのかと冷静に考える事。

内向的だとなかなか瞬発力の発揮出来ない部分ではあるけれど、そうやって努力して受容されやすい自分を意識する事は出来るのではないか。

それは、コミュニケーションにおける些細なやり取りの積み重ねによるものではないかと思うのです。

内省的たれ

内向的と言うと何となく良くないイメージですが、内省的と言うと好意的に受け止められるように思います。

内向は関心が自分に向くことでしかなく、内省は自分がしたことなどを反省するという意味が含まれるからだと思われます。

そうなると、内向的な自分は内省的たれという発想が生まれます。

そのうち、あの人はちっとも内省的じゃないと人のことまで気になりだします。

だけど自分で自分を擁護しなければどうしようもない時はあります。
そんな時ですら内省するのは正直辛いものがある。
逆を言えば、最後の味方にもなり得る自分が自分の反省点を挙げるなんてそれは
甘くなりがちなのではないか。

だから、内省的たれ!というのは悪い発想ではないと思うけれども、内省的じゃないからダメというのは極端な考えではないかと思うのです。

新境地でまっ白

人の生活や人生というのは十人十色であって、感性や生活環境の近しい友人・知人でないと、想像以上に人のそれらが「新境地」ということはあると思います。

例えば、独身の人が子供のいる家庭に訪問する。
子供はいないけど結婚している人でもいい。
逆も然り。
仕事をしていない人が、している人を訪問。
会社員が会社員でない人を、でもいい。
逆も然り。
大金持ちが普通のお宅へ、逆ももちろんあり。

そんな風に自分とは感性や環境が近いとは言いづらい人と関わるのは、そこでインプットできる情報量がものすごく多いということだと思います。ということは、頭の中がまっ白になりやすい。

でも、まっ白でも焦らない。疲れたなら疲れたなりの表情でいい。取り繕わなくていい。違う環境だから疲れるのであって、どっちが大変とか尊いとかそれは考えなくていい。

とりあえず無事に自分の家へ帰り、「新境地」で見聞きしたもの、得た大量の情報を整理することが大事のような気がします。

楽でいいのかも知れない

内向的だと自分の内面への関心が強く、他人からどう思われているかを理解するのは容易ではない場合があります。

そういう状況は逆に自意識過剰気味となり、バランスが取りづらくもなりえます。

しかしながら、おそらく思春期を過ぎて世間のことが少しずつわかってくると、案外みんな他人からどう思われているかわかっているわけじゃないと思えてきます。

そうなると、基本的には他人がどう思うかより自分がどう思うかにより強い関心を抱く内向型は、意外と楽という状況が生まれうると思うのです。

もちろん逆に自分がどう思うかをこんなに気にしなければ、もっと気楽で世渡り上手でいられるのに、というのも起こりえます。

だけど内向型だから常に苦しい状況というわけでは決してないのです。

ゆっくり考える

心理学を勉強していると、”人はついこう考えてしてしまうものだ”というのがよく出てきます。

とある状況に遭遇すると高い確率で、似たような、固定されたものの考えを決まってするというものです。

つまり、思い込みとか、先入観とか、偏見とか、極端な例はそんな感じです。

で、何が言いたいかというと、人はゆっくり考える時と、シュッとほぼ無意識的に考えを持つ時とでは、違う考えを持ちうるということです。

内向型は常に刺激的な環境にいなくても静かにして退屈しない気質だと思います。

ならば、ゆっくり考えるという選択肢も持ちやすいと思うのです。

シュッで無意識的に得た考えは人間らしいものだろうし、頭の良い人ならそれでも満足の行く考えが浮かぶものかも知れません。

でもあえてそれを、面倒くさがらずにゆっくりと考え直してみる。そうすることで違う何かが見えてくるかも知れないのです。

疲れる・・・

内向的=疲れやすい

この考えで色んなことを解釈してきましたが、果たしてそんな単純でいいのか?ということを考えてみました。

まず、何をして”疲れ”とするのか。

夜起きていられない。食欲がない。もしくは異常に食欲がある。集中力がない。
身体的疲れ、精神的疲れ、両方の疲れ。

状況により疲れは増しやすく、逆のこともあるでしょう。

原因が2週間前に心当たりのあることだったり、ここ数週間はずっと忙しかったり、不慣れなこと続きだったり、何か自分にとっての事件が発生していたり。

”疲れ”そのものが何かをはっきりさせるのも難しいですが、それの原因を解明するのも難しそうです。

内向的だと、確かに色々なことに圧倒されて疲れやすいかも知れない。だから、疲れやすいから体力がないとしょんぼりするのは気が早いです。でも、内向的だからいつも疲れている、というだけじゃ疲れの理由にはならないのです。

疲れを癒すには素直に休むこと。そして、内向的なら例えば外出してはしゃぐより静かにしていたほうが休めること。

そういう事は意識していたほうが良いけれど、何でも気質のせいにしていては他のことを見落としてしまいそうです。