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心が強いとはどういうことか

もっと強くなりたい、とか、強い人じゃないと幸せになれないとか言うことがあります。

でも、よく考えてみると心が強いってどういうことなのかよくわからない。

人間は自分の心を、例えば厳しい現実にさらして疲弊してしまわないように、自分に都合よく物事を解釈したり、楽観的に考えるものだそうです。そして、その方がむしろ健康的なのだとか。

けれども、物事を現実的に捉えようと努力する人がいたりします。そしてそういう人は厳しい現実に自分の心をさらしがちなので、感情が抑制できないことがあったり、抑うつ傾向にあったりする。

じゃあ、そういう現実を直視しようとする人は感情的で心が折れがちだったり、抑うつ状態になるから心が弱いのか?

そんなことを考えだすと、心が弱い、とか強いとかいうのはあまり意味がないような気がしてしまいます。

こうしよう!と決めていたのにやり遂げられなかったから、弱い。そういうのはあるかも知れません。だけど、自分ができそうなことしかやらなければ、”やり遂げられない”という状況に陥りようがありません。できないかも知れないことに挑戦しただけでも、心が強い!という考えが一方で出来てしまうのです。

最後になりましたが、内向的だから強い、弱いということも勿論ないと思います。

発達するということ

心理学を学んでいてると、すごく興味深い言葉がいくつも出てきます。今日はその中でも「発達」という言葉について書きます。

「発達」はもともと子供の成長過程にのみ使われた言葉らしいのですが、大人も
変化するということで、人は生涯にわたり「発達」するという考えがあります。

心理学では、より多くの人が体験する変化(青年期や中年の危機、老いなど)について語られることが多いように思います。しかし、子供が体験するような「発達」は大人になってもあるように感じるのです。

子供は「発達」するにつれて情緒や知能が育ち、色々な感性や論理的な考えが持てるようになると言います。でも、もし一般的に大人と呼ばれる年齢になって体験するような「発達」のきっかけ(変化)や環境が、子供時代に訪れてしまったら、情緒や知能の「発達」は他の子供に比べて遅れてしまう、ということがあるように思うのです。

ここで肝心なのは、人は生涯にわたって「発達」するのだから、みんなより遅れても取り戻せるということです。いい大人が小さい子供みたいに情緒不安定気味であっても、これから「発達」するように頑張ればいい。そんな風に思うのです。

そこをどう、頑張ればいいのか。そのヒントに、自分の気質、つまり内向型か外向型かが役に立つと思っています。

訓練は意味がある

「才能」という言葉にはインパクトがあり、その言葉を前にやる気を失くすというのは、あることだと思います。どんなに努力しても「才能」のある人にはかなわないし、追いつけない。

ですが「訓練」というのもどうやら意味があるらしい。練習すると物事はうまくなる。もしかしたら「才能」も「訓練」あってのことかもしれない。

内向型は外からの刺激を大きく受け止めてしまうので、情報収集が下手な傾向にあります。となると社交とか人間関係とか、いろんなサインから状況や人柄を読み取るのも上手じゃなかったりする。

そこで「訓練」が出てくるわけです。

社交術は外向型にはかなわないかも知れない。でも「訓練」を積めば、内向型でも初対面の人と難なく話せるようになるかも。

もし、どうして良いかわからない状況や理解できない人がいたら、少ない情報、
見つけたサインを覚えておいて、家に帰ってからゆっくり考えれば良いのです。
そして想像力を働かせる。

そういう「訓練」の積み重ねで、人付き合いは段々と上手になるものだと思うのです。

自信はどこから来るのだろう?

もし、内向的でダメと自分のことを思っていたとして、それの何がいけないのか?

人は健康な精神の持ち主ならそこそこポジティブで、逆に抑うつ気味くらいでないと現実主義者とはならないらしいです。

ということは、健康ならポジティブシンキングにより、根拠なく自信を持っていてもそれが普通。

なら内向的でダメ、はあんまり健康的な発想ではないということになりそうです。

じゃあ、心身の健康を目指して・・・!というのも目標が果てしない。

多分ですが、目前のことにちまちま取り組むことで自信は知らぬ間に得るもののような気がします。

休日、一日中ゴロゴロor掃除して洗濯して買い出しして趣味に没頭。
会社から帰宅して、コンビニorスーパーで食材買って料理。

もはや、ペットのお茶買うorお湯沸かしてお茶作る、とかのレベルで良い気がします。それか、お風呂入らないor入る・・・とか。レベルの話ではなく、楽or楽じゃないけど、やった方がいい、という選択肢と言えるでしょう。
ちまちまコツコツいつの間にか、というのが理想的です。

ゆっくり考える

心理学を勉強していると、”人はついこう考えてしてしまうものだ”というのがよく出てきます。

とある状況に遭遇すると高い確率で、似たような、固定されたものの考えを決まってするというものです。

つまり、思い込みとか、先入観とか、偏見とか、極端な例はそんな感じです。

で、何が言いたいかというと、人はゆっくり考える時と、シュッとほぼ無意識的に考えを持つ時とでは、違う考えを持ちうるということです。

内向型は常に刺激的な環境にいなくても静かにして退屈しない気質だと思います。

ならば、ゆっくり考えるという選択肢も持ちやすいと思うのです。

シュッで無意識的に得た考えは人間らしいものだろうし、頭の良い人ならそれでも満足の行く考えが浮かぶものかも知れません。

でもあえてそれを、面倒くさがらずにゆっくりと考え直してみる。そうすることで違う何かが見えてくるかも知れないのです。

記憶の捏造?

みなさんは、身に覚えはないが何故か記憶にある、というような経験がございますでしょうか?

心理学においていろいろな研究をするひとがいるようで、記憶の捏造についても実験したひとがいるそうです。

その実験では、お兄さんから”お前が小さいころ迷子になった”と言われて、”覚えていない”と一旦は答えた弟が、次に迷子になった経験について尋ねられると、迷子になった時の事を具体的に説明し始めたのだとか。

この実験、実はお兄さんが心理学の学生で、弟に言って聞かせたような迷子の経験はないというものだったそうです。

お兄さんという信頼のおける情報源に、それらしい情報を与えられた弟は迷子の記憶を勝手に作ってしまったというのです。

ちなみに、想像力が豊かなひとの方が記憶の捏造をしやすいそう。

内向的だと想像力も多少豊かのように思います。気をつけた方がいいかも?

見た目で気質が分かる?

内向的なひとの特徴を考察していると、外見的な共通点を見つけるのはむずかしいように思われます。

見た目でわかりやすいのは体型ですが、まさにそこから内向的かどうかを判断するのは無理のようです。

客観性を気にする外向型ならばダイエットにいそしむ筈、と思ってもそうとは限らないようですし、反対に内向的ならストイックにダイエットに励むのでは、という考えも持ててしまいます。

また心理学の本を読むと、クレッチマーというひとが体型でひとの性質を分類したことの紹介があったりするのですが、あまり肯定的な扱いではないようです。

注意深く内面を探っても、気質をはっきり見出すのはむずかしい。見た目でそれを知ろうとするのは尚更のようです。

愛されたい!

赤ちゃんというのは、周囲の関心をひきつけたり愛されようと動作する能力が生まれつき備わっているそうです。

そういう能力が大人になってからもあればいいのですが、そういう単純なことではなさそうです。

ひとが周囲に関心を持たれたり、気にかけてもらえるかどうかは本人次第という問題のほかにもいろいろな要因があります。

例えば、そもそも周囲に自分勝手なひとばかりなら自分を気にかけてくれようもないし、反対に自分がいつも身勝手ならば好かれようがありません。

そういう環境、自分の性格や見た目、経済状況や特技などありとあらゆるものによって愛されるか否かが決まってきます。

ちなみに内向的だから愛されないとは限りません。貧乏だから愛されないということもなければ性格が悪くてもなぜか好かれるひともいます。要はいろんな要因が重なり合っての結果だということです。

あの所為この所為と考えるのではなく、まず他人の気持ちを考えることが大事のような気がします。

ひととして成長するには

人格という言葉はちょっとむずかしいのですが、その人がどういう人か?ということを表すことばのひとつです。

人格が優れているとか、人格を否定されたとかいう風に使います。

このサイトでは気質は生まれ持った基本的な個人の性質というような意味で使っていますが、人格は生まれ持ったものだけでなく培ったものも含めてのことになるかと思います。

内向的なひとは生まれ持った気質の内向的であることを変えられない。だから反対に外向的に振る舞おうとしてみたりそういうことを考えたりすることが人として成長する助けになるのではないか?と私は思っています。

ひとは生まれてすぐの人格のまま生きてはいけません。成長しなければ社会ではやっていけないし良くも悪くも変化するものだからです。自分の気質に関心を持ち、そこから人格がどう変わっていくかを考えることは自分が成長することの大きなヒントになると思います。

人格は統一すべきもの?

多重人格ということばを聞いたことがあるでしょうか?

ひとりの人に色々な異なる人格が共存し、時と場合により表出する人格が変わってしまうというめずらしい現象です。しかし、最近読んだ書籍によると現代人にとってそういう現象は他人事ではないよう。

インターネットが普及して誰とでもいつでもつながれるようになると、相手の状況を常に考慮できるわけではないのにそうせざるを得なくなり人格をひとつに保つのが困難・・・というもの。

例えば、ひとりで泣きじゃくっているのに友人から幸せそうな報告がlineに送られてくると、幸福に水をさすのは悪いし、今自分がどうしようもなく悲しいことを相手は知る由もないのだからと、相手の幸福を喜んでいる返事を書く。

こういうことは今の日常ではあり得ることだけれども、泣きじゃくっている自分とline上の自分とは人格が一致しているとは言えないということです。

多重人格なんて自分には関係がないと思っていても、こうした日常を繰り返すなかでは自分にもいろんな人格が共存するということになるのかも知れないと思いました。