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思い込みにさよなら?

内向型に限ったことではありませんが、思い込みはついついしてしまうものです。

ですが、思い込みをしている人に対して”思い込んでますよ”と的確に指摘するのは難しいもの。逆に言えば、思い込みで行動したり発言したりしてもひとから指摘してもらえないということです。

しかも、指摘されても素直にはなかなか聞けないもの。
指摘してもらいたい!という気持ちがあったとしても、です。

思い込みがもとで失敗したとはっきりわかっているなら、その思い込みはどうにかする必要があります。でも失敗したわけじゃないなら、そんなに思い込みを敵視する必要があるでしょうか?

管理人は子供の頃から思い込みが激しいと言われ続けており、内向的なせいなのか?と思わないくもないです。
じゃあそれで人生は台無しかと聞かれればそういうわけではありません。

思い込みに気づく時のさわやかな気持ち・・・というのはある気がしますが、自分はなぜこんなに思い込みが激しいのか?とむやみに悩む必要はあまりない気がします。

マイペースでなぜ悪い

内向型は外からの刺激を大きいものとして受け止めがちであるため、刺激の多数ある状況では疲れたり圧倒されたりしやすい気質です。

となると、なんとなくぼーっとして周囲の話を聞き逃してしまったり、自分の考えに没頭して会話にうまく入り込めなかったりしてしまいます。

そうすると時に協調性を保てずマイペースにもなりがちに・・・。
でもそれの何がいけないと言うのでしょう?

管理人も、マイペースが周囲に与える困惑についてや、社会性が高ければ高いほど得する気がするし、生きやすそう・・・といった理由からマイペースを脱しようといろいろ考えたり行動したりしましたが、結局のところ特にいいことはないように思いました。

それはどんな状況でも自分の疲れやすかったり、圧倒されがちな気質はどうしたって変わらないため、頑張って振る舞った分のしわよせが他に出ているように感じたからです。

でもそれはやってみたからこそ分かったこと。マイペースの何がいけないの?と、お感じの方はそのままでいいし、いや良くはないだろうと思う方は改善を試みてください。

社交術とはこれいかに

管理人は社交的ではありません。なので、誰かにアドバイスできるわけもないのですが、これだけははっきりしているらしいと最近感じたので書くことにします。

結局のところ、人付き合いにおいて気にかけられているのはすべて「嫌な感情を相手に抱かせてはいないか?」ということではないでしょうか。

しかしながらこれはあくまで社交術であって、思いやりや誠意のこもった人付き合いでも同じことが常に通用するかと言えば、そうでもない気はします。

もし、新生活などにおいて”もっと社交的だったら楽なんだけどな”と思う状況などあれば、とにもかくにも「相手に嫌な思いをさせない!」ということをたよりに挑んでみられると意外とすんなりうまく行く気がします。

受け流す

内面につよい関心を持っていると、時として自分の感情にこだわってしまい、嫌なことを受け止めきれないということがあります。

何が嫌なの?と聞かれても、嫌なものは嫌なのだから仕方ありません。
もし自分が精神的に成長を遂げて、冷静に考えて、そんなに嫌がるべきことなのだろうか?と思えることもあります。
でも、嫌な感情を持ってしまうことを、そう簡単に変えられはしないのです。

そこでどうすればいいのか?

嫌な感情を起こさせることに対し、受け流せるようになること。

負の感情は他人を傷つける原動力にもなり、ただ正直に素直に振る舞っただけというのでは済まないこともあります。
嫌な感情が湧き上がるようなことが何故起こるのか考えだすと、ますます自分の感情に振り回されることにもなります。

負の感情をなかったことにしたり、無視したり、溜め込んで我慢するのは良くありません。
でも、嫌な思いを自分だけがしているのではない場合もある。
常にそうするべきということではなく、時と場合によって”受け流す”ということを選択肢のひとつとして持っているほうが生きやすいのではないかと思うのです。

ブログで何書く

みなさまはブログやsnsをお使いでしょうか?

どこへ遊びに行ったとか、何を食べたとか、そういう書き込みが一般的のような気がします。

中には私的な感情を誰宛てというわけでもなく書き綴っている方もおられます。
そういったものを見かけると、見てはいけないものを見たような気にもなります。

その良し悪しを私が判断できるわけではないのですが、そういった内面を書き綴るということはこの方々は内向的なのかも知れないとは思うわけです。

どうしてリアルの日記帳ではだめなのか・・・。

余計なお世話ですが、紙のノートを買ってそこに書くほうが、ブログで誰かと共有できているかのような曖昧な状態を作り出すよりも、自分の感情とはっきり向き合えるような気がします。

幸せってなんなの

幸せとは何か?これがわかれば何も悩まないので、のっけからこんなことを言うのも何ですが、それはなかなかわからないものであります。

ただ日常暮らしていると、幸せにも種類があるという気がしてきました。

それは、”自分が感じる幸せ”と、”ひとから見た幸せ”です。

前者は、おいしい、とか心地よい、涼しいとかあったかいとかそういうこと。
後者は、お金持ちとか、美しい、才能があって、愛されている、など。

こういう考え方をすると、内向型と外向型では思う幸せが違うような気もしてきます。

でもそんな単純なことなのだろうか・・・?誰にとっても、どんな気質のひとでも”幸せがなんなのか迷う”ということは起こってるんじゃないだろうか。

それすらもはっきり確信が持てないくらいむずかしいことです。

しがみつくのは当たり前

思い込みがはげしく、勘違いもしばしば。
頑固に振舞って、周りとうまくやれなかったりする。

内向型にはこういった悩みがある気がします。

でも外からの刺激を大きいものとして感じる内向型が、せっかく得た情報をもとにした確信をどうしてそうやすやすと手放すことができますでしょうか。

周りのすべてのひとがそうやって理解してくれるわけではないけれど、思い込みや勘違いで失敗しても、次から気をつけるようにすればいいのだし、自分を否定する必要はありません。

思い込みがはげしいとひとに非難されても、本当に自分はそんなにひどい振る舞いをしているのかよく考えるべきであり、むやみに自分を否定しないほうがいいと思います。

ひとの意見を聞くべし

内向型は、外からの情報を取得することが苦手です。

外からの刺激を大きいものと受け止めて疲れてしまうし、細かい情報すらも受け取ってしまうので情報の総量が多すぎて整理しきらないのです。

そうなると情報の蓄積も苦手となるようで、例えば初対面の人がどんな人で、どんな付き合いや話をすればいいかもよくわからなかったりします。

自分を変えることは容易ではありませんから、そこはどうしようもないと諦める他ありません。

しかし、世間にはそういう情報取得が得意なひともいるわけです。そして、そういうひとに私たちは意見を求めることができる。

意見をもらっても、否定するのでは意味がありません。それを素直に受け入れることに慣れることが大事と思われます。つまり、ひとに何かすすめられたりして”それはない”とか”面倒だな”と思っても、とりあえずその通りやってみる。

やってみて得るものがあれば少しづつ慣れていくのではないでしょうか。

真実はどこにある?

唐突ですが、内向型と外向型では見えている世界が違うように思います。
と言うより、そのくらいに思っていたほうがお互いに理解しやすいと思うのです。

例えば、同じ映画を見たのに全く違う感想が出てくる。ものの見え方や感じ方がかなり違うことを了解していないと、ただ単に相手は意味のない情報を映画から読み取っているのだ、と思いかねません。

外向型は悪い登場人物の魅力を語り、内向型はその人物に悪意はなく本当は良いひとの筈だ、などと言う。外向型はその登場人物に関する情報をあますところなく画面から感じ取り悪人と認識しながらもその魅力を認めるが、内向型はそこまで情報取得能力にたけていないのであくまで自分の感じたことと考えをヒントに人物描写を試みる。

どっちがいい、ということはありません。たぶん一番いいのは素直に情報交換をすることでしょう。

だけど、お互いに見えている世界は違うのだから、それぞれの意見にはそれぞれの真実があるという考えを持てていなければ、そういう渡り合いはしようがないのではないでしょうか。

内向的かどうか見分ける

有名人のブログなどを見ていると、文章の上手なひとがいます。逆にそれが苦手だとそもそも更新しないらしく、そうひとを見かけることはあまりありません。

文章が上手だと、内向型かな、となんとなく思ってしまいます。

だけど、文章を書くには客観的視点が不可欠で、外向的なところがないとなかなか上手くいかないものです。
でも書く内容が自分の内面と照らし合わせられていないと、文章は幼稚になってしまうだろうし、やっぱり内向的であるような気もする。

このように、誰かを内向的か外向的か判断するのは相当むずかしいことです。

もしそういうことをしようとするならば、内向的な所と外向的な所を両方探して、そのバランスを見たほうがいいと思います。

そして自分に関しても、そういう風なバランスを意識するほうがどちらかのタイプに決めてしまうよりもいいかも知れません。