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明るく振る舞えば人は寄ってくる?

アメリカの青春映画やドラマを見たことがある方は、はっきりとイメージしやすいと思うのですが、ポピュラーキッズあるいは人気者という人は世の中に確かに存在して、彼らはいつも明るくハッピーな雰囲気に包まれて、その名の通り人を惹きつける魅力ある人気者と言えます。

そういった彼らを模して、いつも明るく振舞っていれば自分も人を惹きつけられるかも知れない、とつい考えてしまうのですが、それは本当なのか?

まず、難しい問題に直面すると人はどうしても渋い顔をしてしまうもの。真剣に生きていれば、常に明るく振る舞うなんて無理じゃないかなと思ってしまいます。

人に心配させまいと明るく振る舞う人もいます。でもそれは、明るく振舞って人に心配かけまいとすることが、本人にとって心理的負担がより少ないからそうするのであって、無理にそうしているわけではない。要は単に、それはその人の特性の一つであって、その特性だけで人を惹きつけているわけではないと思うのです。

暗い顔をして沈黙していれば、それは人も寄ってこないでしょう。それを「明るく振舞っていないせい」だと考えるのは極端すぎます。

人を惹きつけるもの、それは「自分らしさ」やそれによっていかに「人生を謳歌してそう」に見えるかではないでしょうか。辛い時に思いっきり渋い顔をして大いに苦しむ。そういうことが人を惹きつけるのに、何の役にも立たないとは、どうしても思えないのです。

個性的たれ?

自分は内向的なせいでいろんなことがうまくいかないのではないか・・・。

そんな風に考えてしまう人は、自分には個性が足りないんじゃないか?などとお悩みではないかも知れません。

でも、自分があまりにも平凡で普通だと自分は何の取り柄もない人間なのではないかと不安になることがあります。

ひと昔前、最近の子供は没個性的だ、などと言われた時期があったのですが、その時にいかにも個性的な友人はこう言っていました。

「個性というのは自然に備わるものであって、個性が無い、などということは人間として有り得ない」

そんなことを言われて、アイデンティティの確立に四苦八苦している自分からすれば、そんなの正論だ、と思ったけれど、大人になって冷静に考えてみると確かに、個性などというものは、どんな人にも備わっているものと感じられるようになりました。

みんなに愛されたり好かれたりすることは個性あってのことですが、個性的だから愛されるというわけではありません。
個性的であろうとすることはもしかしたらナンセンスなことなのかも知れません。

発達するということ

心理学を学んでいてると、すごく興味深い言葉がいくつも出てきます。今日はその中でも「発達」という言葉について書きます。

「発達」はもともと子供の成長過程にのみ使われた言葉らしいのですが、大人も
変化するということで、人は生涯にわたり「発達」するという考えがあります。

心理学では、より多くの人が体験する変化(青年期や中年の危機、老いなど)について語られることが多いように思います。しかし、子供が体験するような「発達」は大人になってもあるように感じるのです。

子供は「発達」するにつれて情緒や知能が育ち、色々な感性や論理的な考えが持てるようになると言います。でも、もし一般的に大人と呼ばれる年齢になって体験するような「発達」のきっかけ(変化)や環境が、子供時代に訪れてしまったら、情緒や知能の「発達」は他の子供に比べて遅れてしまう、ということがあるように思うのです。

ここで肝心なのは、人は生涯にわたって「発達」するのだから、みんなより遅れても取り戻せるということです。いい大人が小さい子供みたいに情緒不安定気味であっても、これから「発達」するように頑張ればいい。そんな風に思うのです。

そこをどう、頑張ればいいのか。そのヒントに、自分の気質、つまり内向型か外向型かが役に立つと思っています。

内省的たれ

内向的と言うと何となく良くないイメージですが、内省的と言うと好意的に受け止められるように思います。

内向は関心が自分に向くことでしかなく、内省は自分がしたことなどを反省するという意味が含まれるからだと思われます。

そうなると、内向的な自分は内省的たれという発想が生まれます。

そのうち、あの人はちっとも内省的じゃないと人のことまで気になりだします。

だけど自分で自分を擁護しなければどうしようもない時はあります。
そんな時ですら内省するのは正直辛いものがある。
逆を言えば、最後の味方にもなり得る自分が自分の反省点を挙げるなんてそれは
甘くなりがちなのではないか。

だから、内省的たれ!というのは悪い発想ではないと思うけれども、内省的じゃないからダメというのは極端な考えではないかと思うのです。

楽でいいのかも知れない

内向的だと自分の内面への関心が強く、他人からどう思われているかを理解するのは容易ではない場合があります。

そういう状況は逆に自意識過剰気味となり、バランスが取りづらくもなりえます。

しかしながら、おそらく思春期を過ぎて世間のことが少しずつわかってくると、案外みんな他人からどう思われているかわかっているわけじゃないと思えてきます。

そうなると、基本的には他人がどう思うかより自分がどう思うかにより強い関心を抱く内向型は、意外と楽という状況が生まれうると思うのです。

もちろん逆に自分がどう思うかをこんなに気にしなければ、もっと気楽で世渡り上手でいられるのに、というのも起こりえます。

だけど内向型だから常に苦しい状況というわけでは決してないのです。

客観的にものを見ることのむずかしさ

モデルさんや女優さんを見ていると、いつも口角があがっていて笑顔に見えます。
そのお顔は本当に幸せそうでうらやましいなあと思います。

ですが、自分のこととなるとなかなか意識できない。

あからさまにしかめ面をしているくらいは自分でも気がつきますが、たいていはどんな顔をしているか想像すらしていません。

客観的にものを見ようとする時、そこには必ず自分がいます。
そこにいる自分がどんな顔をしていて他の人からどう見られているか?がわかれば少しは場のこともわかる気がします。

でも自分の顔すら想像できない。

物事を客観的に見てごらんとよく言いますが、実際には相当むずかしい。内向的なら尚更、というこになるかも知れません。でも、いま自分はどんな顔をしているだろう?ということが意識できれば少しは変わるかも?

思い込みにさよなら?

内向型に限ったことではありませんが、思い込みはついついしてしまうものです。

ですが、思い込みをしている人に対して”思い込んでますよ”と的確に指摘するのは難しいもの。逆に言えば、思い込みで行動したり発言したりしてもひとから指摘してもらえないということです。

しかも、指摘されても素直にはなかなか聞けないもの。
指摘してもらいたい!という気持ちがあったとしても、です。

思い込みがもとで失敗したとはっきりわかっているなら、その思い込みはどうにかする必要があります。でも失敗したわけじゃないなら、そんなに思い込みを敵視する必要があるでしょうか?

管理人は子供の頃から思い込みが激しいと言われ続けており、内向的なせいなのか?と思わないくもないです。
じゃあそれで人生は台無しかと聞かれればそういうわけではありません。

思い込みに気づく時のさわやかな気持ち・・・というのはある気がしますが、自分はなぜこんなに思い込みが激しいのか?とむやみに悩む必要はあまりない気がします。

内向的かどうか見分ける

有名人のブログなどを見ていると、文章の上手なひとがいます。逆にそれが苦手だとそもそも更新しないらしく、そうひとを見かけることはあまりありません。

文章が上手だと、内向型かな、となんとなく思ってしまいます。

だけど、文章を書くには客観的視点が不可欠で、外向的なところがないとなかなか上手くいかないものです。
でも書く内容が自分の内面と照らし合わせられていないと、文章は幼稚になってしまうだろうし、やっぱり内向的であるような気もする。

このように、誰かを内向的か外向的か判断するのは相当むずかしいことです。

もしそういうことをしようとするならば、内向的な所と外向的な所を両方探して、そのバランスを見たほうがいいと思います。

そして自分に関しても、そういう風なバランスを意識するほうがどちらかのタイプに決めてしまうよりもいいかも知れません。

満足して暮らす

日々何のためにちょこまかと悩み苦しみそしてさまようのかと考えた結果、自分はどうやら”どうしたら満足して暮らしていけるか?”を追い求めているいらしいと思い至りました。

買ってきた間違いなくおいしいものよりも、自炊したほうが満足感が得られる。
流行を追いかけるより、丈夫で長持ちしそうな服を着ているほうが満足できる。
ちょっとだけ外出をして、あとは家のなかで過ごせると満ち足りた気分になれる。

自分が満足するかどうか?は、その行為をイメージでとらえるのではなく、実感としてどうか?ということをきちんと考えることが大事です。それは内向型の得意とするところのような気がします。でも上に書いたような目先の、かつ自分だけの満足を追求するあまり空回りすることも。

なかなか出来ないことではありますが、他人の満足に関わることがまわりまわって自分の満足につながることもある、というところまで考えられるようになりたいものです。

自分と向き合う

内向的であることを悪いことのように書かれることがあります。他人がどう言おうが関係ないという考えもありますが、問題は自分自身を肯定しづらい要因としてその意見を採用してしまうことです。

自分は内向的だからだめ。内向的だから上手くいかない。

でもそもそも内向的ということばをどうとらえているのか?ということを考えると、そういうことを言うひとはたまたま自分がだめな理由を内向的であることに据えているだけで理由は何でもいいと思っている気もします。

内向的かどうかは気質の問題で人間の良し悪しを決定できる事柄ではありません。
内向的だからだめ、ということは絶対にありません。問題があるとしたら何か別のこと・・・と思われるので、もっと広くご自分を見つめなおしてみてください。