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ストーリーの作り方

このコロナの中、いつもよりお家で過ごす時間が多い方もいると思います。そこで、私もいつもと違うことをしてみようと思いました。
料理って、他人が作ったものと、自分が作ったものとが仮に同じ味だった場合、自分が作ったものの方がはるかに美味しく感じませんか。それは、ストーリーも同じです。
時には、何億とかかった映画より、自分で作ったストーリーの方が、面白いこともあります。
というわけで、今回は「ストーリーの作り方」について書いていきたいと思います。
注意事項:自分が面白いと思っていても、他人が読んで面白いとは限らないのがミソですが、とりあえず書き上げるところから始めましょう。

【前置き】
いつのことか忘れましたが、ネットで「小説の書き方」と検索すると、ヒットしたサイトに、”小説を書く時に一番大事なのは、世界観”とありました。それは確かに大事だと思うのですが、ここで”世界観?”となってしまったら、割と終わるので、まずは”世界観とは、自分が書けば自然と出るもの”としてはどうかと提案しておきます。
あと、”自分の書きたいこと”も大事です。書いている途中に「一体、自分は何を書いているのだろう?」と思ったら、”自分の書きたいこと”を思い出すことで、再開できます。

【本題】
まず、ストーリーとは、物事の変化を描くことです。
Aという事象が、ストーリーの終わりにA’に変わっている、というようなことです。
それは、主人公の気持ちの変化だったり、主人公と誰かの関係の変化だったり、だいたいはそんなところです。

というわけで、まずAが何かを決めます。
平凡な毎日でも良いですし、逆に最悪な状況でも良いでしょう。

次に、A’が何かを決めます。
平凡な毎日が楽しくなる、逆に最悪な状況が素晴らしい状況に変わる、など。

Aは、読み手に共感して貰えそうな内容や、もしくは自分自身がリアルに描ける何かでいいでしょう。
A’は、読み手や自分が、”こうなれば良いのに”と思うものがいいでしょう。
読み手の予想を裏切って、A’は”こうなればいいな””こうなったら嫌だな”以外から探すのもいいとは思いますが、最初からハードルが高すぎるので、とりあえず書き上げることを目標として、やめておきましょう。

次に、A→A’へ行くには、どうすればいいか?を考えます。
A:恋人がいなくて寂しい毎日
A’:恋人もいてハッピーな毎日
とします。そしたら、主人公は何をするでしょう?
アプリに登録?クラスメイトに相談?街中で好きな人を見つけて、告白の計画?
そんなところでしょうか。

次に、ストーリーの展開を阻むBについて考えます。
例えば、主人公は同性愛者で、恋人が欲しいけど、どうやら自分は多数派ではなさそうなので、どうして良いかわからない、とか、親友がひどい失恋をした後で勇気が持てない、とか。

次に、Bの変化を考えます。B’です。
同性愛を自認した主人公が偶然見つけた相談相手について、その人は異性愛者だと思ってたのに、逆に告白される、とか、ひどい失恋をした親友に気を遣って好きな人との付き合いを迷っていたのに、親友が仕事で成功する、とか。

これで、A→B→B’→A’のストーリー完成です。

・・・え?B’でいきなりハードルが上がっていて、ストーリーが思いつかない?

では、ヒントを置いておきます。
ちなみに、映画や漫画、ドラマなどを飽きるくらい見れば、適当に何か思いつきますが、ストーリー展開においてよくポイントとなるのは次の通りです。
《モチーフ》
・異性愛
・同性愛
・経済的困窮
・金持ちの生態
・殺人事件
《転機となる出来事》
・結婚
・妊娠
・浮気
・昔の恋人との再会
・すっぽかし
・一目惚れ
《状態》
・自分の気持ちがわからない
・相手の気持ちがわからない
《変化のきっかけ》
・嘘
・隠された真実の暴露
《でかいテーマ》
・愛とは何か?
・人生とはどう生きるべきか?
・私とは誰か?

そして、意外と重要なのは『キャラ作り』です。主人公や登場人物のキャラを作り込んでおけば、考えなくても勝手に行動してくれますし、”主人公が言いそうなこと”をセリフとして書き出せば良いので、楽なうえにストーリーもブレにくいです。

いかがでしたでしょうか?
大人気作家でもないのに、こうしてストーリー作りについて講釈を垂れるのは変ですが、料理は自作する方が美味しいのと同じで、ストーリーは下手でも自分で作った方が絶対に楽しい!
一人でも多くの方に、ストーリー作りの楽しさが伝わりますように〜。
☆・゚:*:゚ヽ(・ω・)ノ*:・’゚☆

エリザベート(エッセイ)

私のチケット争奪戦は今のところ全敗で、いつも通り今回も月組「エリザベート」(2018年)は見られませんでした。
なので、とりあえず今回はエリザベート考察です。

エリザベートはよく旅をする。
旅は楽しいけれど、やはり逃避であることは否めない。
旅先で自分が生まれ変わったりはしないものだし、戻ってきても、旅に出る前の現実が再開されるだけなのだ。
さらに言うと、旅の間は現実問題が停滞するわけだから、解決は遠のくばかり。

あんなに美しくて、しかもハンサムでお金持ちの権力者の妻として、自らも王妃の座を手に入れた。それなのに、逃避を繰り返すほど、その人生は辛いものだったのだろうか。

旅行ばかりして、現実逃避ばかりする彼女を思うと、もしかしたら私たちとそう変わらない、普通の人だったのではないかと思う。例えば、ゾフィーなどと比べても、ずっと素朴で単純な、共感を覚えやすい人物だったのではないだろうか。

そのドラマティックな人生を思うと、こんなのは信じられないことだ。でも、彼女もただ誰かに愛されたいだけの、普通の人だったのかも知れない。

そんな、普通の女性の一生を追いかける。
だから、このミュージカルは面白いのではないか。

普通の人の実際の人生は、エリザベートのものほど、ドラマティックではない。
けれど、その心の動きは、地味な人生とは裏腹に、結構ドラマティックなものだ。
私たちは、このミュージカルに、自分たちのドラマティックな内面を見出しているのかも知れない。

この物語は、唯一自分を愛してくれた”死”の存在を受け入れられず、誰かに愛されたくて苦しみ続けた彼女の物語でもある。それは、自らの運命をなかなか受け入れることの出来ない人にも励ましを与える。

どんな人でも、人生にはドラマがあり、見過ごされがちな激しい感情があり、そして運命がある。自分自身ではそれをリアルに感じていても、他人からはなかなか認められないものだ。
このミュージカルは、そんな自分だけのリアルを、肯定してくれるのだ。

おしまい

メサイア

花組公演「メサイア異聞・天草四郎」、観に行ってきました!相変わらず、明日海りおさんの迷いなき演技に感動しましたし、視力が落ちに落ちてオペラを使ってもあんまりよく見えない私は”声でわかる明日海りお”を堪能して、とにかく楽しかったです。それに、柚香光さんが良かったですよね。うんうん。
ショー「ビューティフルガーデン」はいつも通り楽しかったです。特に、マタドールのところでは、心の中で鼻血が出ました。出た方多いんじゃないでしょうか。
ネタバレしてます。プロットなどをよく思い出せずに書いたので、本公演がお気に入りだった方は読まない方がいいかも知れません。あと、史実を基にしたネタでもございません。では、楽しんでいただけると幸いです。よろしくお願いします。

聞き慣れたのとは明らかに違う波の音・・・。けれど、聞いたことのない音ではなかった。それ以外は、何の音もしない。ただ、砂浜に寄せては返す波音が俺の心を静かに撫でるだけだった。
(俺は・・・助かったのか・・・一体ここは・・・)
思い出すのは、激しい稲光に強風であおられた船体。そして何より、波間に消える仲間の姿。痛みをこらえながら何とか体を起こし瞼を開くと、周りには誰もいないようだった。
(助かったのは、俺だけなのか・・・)
子供の頃から、周りの大人たちにしごかれ、死にたくなるような目にも散々あってきた。だが、やっと得た自分の船も、財宝も、そして何より仲間を失い、自分がこれからどうなろうと、もうどうでも良かった。
それなのに、腹が減れば体は勝手に動き、そして人のいそうな方へ自然と足が向く。どうしたって俺は、こんなにも図太いのだろう。
物陰から様子をうかがうと、数人が農作業をしているのが見えた。服装からして、ここは異国ではなさそうだ。
まだ頭がはっきりしないせいか、つい隙ができてしまった。俺に気付いた女の声を聞いて、死角にいた男どもがすぐに取り囲んだ。
「おい!おかしな格好をした奴がいるぞ!すぐに益田様を呼んで来るんだ!」

益田というのは初老の侍で、天草と呼ばれるこの一帯を仕切っているようだった。俺を一通り眺め回し、少し考え込んだ様子を見せた後でこう言った。
「この男は益田家で預かる。異論はないな」
周囲の中には意外だという顔を見せる者もいたが、それでも文句を言う奴はなかった。益田について行くと、侍にしては粗末な家から、迎えと思しき女子供が何人か出てきた。
「父上、そのお方は」
「今日からこの家で面倒を見ることにした。男手はいくらあっても足りぬだろう。見たところ何でも出来そうだ。何か用を言いつけてやりなさい。ただ、今は疲れて腹も減っているようだから、食事と寝床の用意をしておあげなさい」
俺は、牢屋につなぐか、下男としてこき使われると思っていたから驚いた。それで思わず、こう尋ねた。
「あんた、俺が何者かわかって言ってんのか?」
「わかっているわけではない。わかっていたところで、言うつもりもない。皆を怖がらせるだけだからね。言っておくが、お前の持っていた火薬は湿っていて使い物にならない。それにそんな様子じゃ、私の家族を襲うほどの気力はないだろう。さあ、食事をしてゆっくり休みなさい。まだ顔が青い」
俺はそれを聞いて、益田は何もかも承知の上と分かった。だが、分からないのはどうしてそんなことをするかだった。
「デウス様のお導きだね。お前のような若者が私たちのところへやってきたのは」
俺の顔を眺め、心の中を読むかのように、益田はそう言った。

それからは、益田家の男手として家や村のために働くようになった。畑仕事もあれば内職などもあり、子供達の遊び相手にもなった。だが、子供達が自分を呼ぶときに”お兄ちゃん”と言うのには一向に慣れなかった。親もなく、物心ついた時から一人で生きてきたから、そんな風に呼ばれたことなど、これ迄ただの一度もなかったからだ。
しばらくすると、益田は俺を養子にすると言いだした。侍の養子になるなんて、見当のつかないことだったから、俺は益田の言いなりだった。だが、それが嫌ではなかった。それに、どういうわけか、反対する者は一人もいなかった。皆、口を揃えて”デウス様のお導きだ”と言った。益田は俺を、”四郎”と名付けた。
村が貧しいことはここへ来てすぐに分かった。それは食事や身なりなどを見れば一目瞭然だったが、暮らしてみると想像以上に厳しかった。それと、彼らの言動からは、彼らが熱心なキリシタンであることも見て取れた。異国へ行けばキリシタンなど普通にいるものだ。だが、ここは違う。以前とは違い、もはやキリスト教は幕府によって禁じられているはずだった。
(俺は、嵌められたのだろうか。こいつらは何か、企んでいるのだろうか・・・)
ふと、そんなことが頭をよぎった。幼い頃から人に騙されずに生きる方法ばかり考えてきたからだろう。だが、これまでの相手は悪党ばかりだったから、それも当然だった。ここの人間は、どう見たってそんな悪どい連中とは違う。

益田の家は海から近く、働いている間、いつでも波音が聞こえた。浜へ出て海を眺めると、ここに来るまでの光景がよみがえった。盗みやたかりをしながら過ごした子供時代、なんとか倭寇(注:海賊のこと)の親方に取り入って海へ出た。陸では見ることのできない景色が目の前に広がり、異国の人々を相手にすれば気分は高まった。世界は自分の手のひらの中にあるとさえ思えたし、どんな辛いことがあっても、それがあれば生きて来られた。
俺を買ってくれた親方が病に倒れ死んだ後、俺は親方の船を継いだ。慕ってくれる仲間も増え、船はそこそこのものだった。これまで俺を酷い目に遭わせた、全ての人間の鼻を明かしてやれそうなほど、稼いで稼いで稼ぎまくった。今思えば、その時に俺が襲った連中には、益田の家にいるような善良な人間も含まれていたのかも知れなかった。だが、この世の不公平を嫌という程味わって来たその時の俺には、そんなことわかる筈もなかった。
今こうして全て失ったことを思い返しながら海を眺めていると、いてもたってもいられなくなる。これまでの罪を償うでもなく、益田の家に厄介になるだけで何もできやしない。世界の中心が自分だと思えたのも幻のようで、それを思うと全身が焦げ付くようだった。
(そう言えば嵐に襲われる直前、この近辺に財宝が隠されているという話を仲間の一人がしていたな・・・。もし、その財宝を見つけられれば、俺は元の生活に戻れるかも知れない・・・)
急にそう思い立つと、岩山を彷徨い始めた。もう日が落ち始めたから、今から行くのでは夕食に間に合わない。家の者は俺を探すだろう。だが、そんな考えはすぐに打ち消した。俺は、益田家や天草から逃げ出したかった。

ごつごつした岩山の中、なんとか足場をたどって行くと、入り口の小さな洞窟を見つけた。海岸にはよくある洞窟だったが、どうにも気になり中へ入った。すると、奥から油の臭いがして、人のいる気配がした。狭い隙間を通り抜けると途端に視界が開け、俺はとっさに物陰へ隠れた。明かりが揺れて、天草の村では聞き覚えのない、若い男の声がした。
「誰だ!!」
あからさまな敵意ある声ではなかったが、姿を見せると、男は刀を抜いてこちらに向かって構えていた。
「俺は天草の益田四郎だ。刀をおさめてくれ」
「お前が、あの益田殿の養子になったという男か・・・」
俺は、自ら益田姓を名乗ったことに自分でも驚いた。不利な立場で他に仕方がなかったとは言え、なんとも情けなかった。
「ここで何をしている」
男が刀をおさめて壁の方へ下がると、手にした灯りで壁一面に絵が飾られているのが見えた。
「何だ・・・ここは・・・!」
「私は島原からここへ来て、キリシタンの者たちのため絵を描いているのだ。私は・・・松倉家に仕える絵師だ。リノと呼んでくれ」
「リノ・・・本名ではないな。キリシタンが使う名前か・・・」
「益田殿から、キリシタンの名を与えられているのではないか。洗礼を受けていないのか」
「俺の勝手だろう。放っておいてくれ。そんな事より、松倉と言えば大名ではないか。そんな家に出入りする絵師がこんな絵を描いているとは・・・」
俺がそう言うと、リノは癪に障ったようで、少し不機嫌そうにした。
「随分と遠慮のない物言いをするのだな」
「回りくどいのは嫌いなんだ。それに俺は、どうしてここの連中が、そんなにもキリシタンにこだわるのか分からんしな」
「益田殿の家にいて、わからぬのか?我々がどんなに厳しい暮らしを強いられているのかを」
リノの目は真剣だった。南蛮の絵を描くような奴に、まっとうな人間などいない。それが俺の知る限りのことだったが、この男はそうではないと、すぐに理解した。
「信仰がなければ、私たちは生きてはいけぬ。この土地には生きる希望がない。松倉家が治めるようになってからと言うもの、石高は上がるばかり。しかも、それは私たちが納められるもの以上のものなのだ。私たちは、デウス様におすがりする他に、もはや生きる希望を見出すことが出来ない」
「分からないな。もしデウスがお前たちを救ってくれるなら、松倉家はとっくに潰されているだろう」
「あなたには、信仰心というものを理解する気持ちがないのか?」
「信仰?俺は、子供の頃から必要なものは人から盗んででも手に入れてきたのさ。自分以外の人間なんて信じないし、ましてや神様仏様なんかにすがる奴の気が知れないね。そんなものがいるなら、俺だってとっくにこの世にはいないさ」
リノはそんな俺の話を聞いて、静かに目を閉じ、何かをブツブツと唱え始めた。
「何をやってるんだ?」
「お祈りです。どうか、あなたの魂が救われますように」
俺はあっけにとられて、リノのその姿をただ眺めていた。
「どうして、キリストの絵を描き続けるのだ?禁じられておるのに」
「村の者が喜ぶ。厳しい生活を強いられ、皆私の絵が支えなのだ」
「それだけじゃないだろう?人の為にだけ描くにしては、その身を危険にさらしすぎる」
リノはそう問われると、丸で話したくないことを尋ねられたみたいに、答えようとしなかった。
「今日はもう遅い。また今度、絵を描いているところを見せましょう。もっと早い時間にここへおいでなさい」
そう言うと、俺を伴って洞窟を出て、島原へ帰って行った。

リノを見て、ここの連中に感じるものが何か、ようやく分かった気がした。何かが俺とは根本的に違っている。それは、自分の力で、この現状をどうにかしようとしないことだ。戦い、盗み、虐げられても決してへこたれず、立ち上がり、生き続ける。そういう力がここにいる人間には欠けている。そうやって生きてきた俺にとっては、どうにも理解し難いことだった。その上、神にすがり、キリストを信仰することで、いつか自分たちは救われると思っている。
益田家は相変わらず貧しかったが、それでもなんとかやっていた。だが、後もう少しでも松倉に持って行かれるようなことがあれば、誰かを家から出さねばならなくなるだろう。そしてそれは、女子供になるはずだ。男手を失えば、もっと立ち行かなくなるからだ。なんとかそれだけは避けたいが、だが俺とてどうすべきかはわかっていたわけではなかった。一度は逃げ出そうとしたが、まだここですべきことがあるように思えた。そして、それが具体的に何であるか分からない以上、ここを立ち去るわけにはいかぬと、思い始めたのだった。

その後も、俺は岩山の洞窟へリノを訪ねた。天草の村は、俺を受け入れてはいたが、打ち解けて話せる相手がいる訳ではなかった。リノとて、口を閉ざすことも少なからずあったが、俺が来ると必ず笑みを見せ迎え入れてくれた。
ここ島原では、キリシタンであることを知られれば、厳しく責め立てられ、時に拷問を受けた。キリシタンかどうかを調べるため、松倉の家臣はどこから手に入れたのか、リノの描いているようなキリストの絵を足で踏ませた。キリシタンであれば、畏れ多いとキリストの絵など決して踏まぬからだ。松倉家の拷問は、ほとんど死を意味するくらいのものだった。リノは、南蛮絵が踏まれることにも、踏めずに拷問される人々がいることにも、ひどく心を痛めていると俺に話した。
「それにしても、キリストの教えとは、どんなものなんだ?益田の者も、信じていればデウスに救われ天国へ行けるということくらいしか言わぬ。経典などはあるのか?」
「経典ではない、聖書だ。聖書は異国の言葉で書かれていて読むことはできない。だから私の描く絵が必要なのだ。聖書については、私は南蛮絵と共に異国の人間から教わったので、他の方々よりは多くを知っていると思うが」
「今リノが描いている、そのたくさんの人々が描かれた絵は何なのだ?」
「これは、最後の晩餐という絵だ。イエス様が磔にされる前に、弟子たちと食事をしている。中央にいるのがイエス様で、その周りにいるのが弟子だ。まだ描きかけだが、描き上げれば私の一番の絵となるだろう」
「そうか。そう言えば端の方にまだ色をつけておらぬところがあるが、そこにも何か描くのか?」
「ああ。描くのが難しい弟子なので、まだ描けておらぬ」
「リノが描くのをためらうほどなら、さぞかし徳の高い人物なのであろう」
「いや、そうではない。その弟子はイエス様を裏切ってしまうのだ」
「そうか・・・キリシタンにも、裏切りはあるのだな」
「そうではない!しかし、今にも裏切ろうとしている者の顔がどんなものか私には分からぬのだ」
俺には、リノのその気持ちは分かってやれなかった。裏切り者の顔など、自分たちと同じ顔をしているものとしか思えなかったからだ。俺と違って、誰かの裏切りに怯えながら生きたことなどないのだろう。しかし、天草にいればそういう生き方があっても不思議ではないと思えた。現に、益田が俺を裏切るなどとは、到底思えぬのだった。
リノは、少しずつその絵を完成させていた。俺たちは、様々な話をしながら、いつしかお互いを友と認め合うようになっていた。

ある日、いつものように岩山の洞窟へ行くと、見たことのない少女を前にして、すでに絵筆を取り描き始めていた。少女は、この辺の者にしては色が白く、透き通るような肌をして目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしていた。それはまるで、リノの描くキリストの母親のような姿だった。
「来たのか。こちらはルウ殿と申す。こちらは益田家の四郎殿」
「お初にお目にかかります。四郎様は、とても腕の立つ方だとか」
「なぜそんなことを?」
リノはそれを聞いてニヤっと笑い、こう言った。
「私も武家に生まれた人間だからね。四郎殿の佇まいにいかに隙がないか、それくらいの事は分かる。さあ、こちらへ来なさい。絵もよく見える」
ルウはまっすぐに壁を見つめて、微動だにしなかった。その眼差しは心の強さを表しているように思えた。
「ルウ殿のような美しい姿なら、キリストを信じる気持ちも分かるな」
俺がそう呟くと、リノは嬉しそうに微笑んだ。
「美しいものを見れば、信仰も芽生えやすい。私の策は見事であろう?」
それを聞いて、俺もルウも恥ずかしそうにした。
「デウス様はいつも、私たちを見守ってくださいます。四郎様にも早く信仰が芽生えます様に」
その時だった。洞窟の入り口から声がした。
「いたぞ!」
それを聞いたリノの顔が一気に青ざめた。声の主が現れると、リノとルウは地面に手をつき、顔を伏せた。
「松倉様直々に、御領地を見て回られている。その方、ここで何をしておるのか?さっさと答えよ!」
俺も二人に並び、地面に手をついたが、松倉と思しき男が寄ってきて、リノを蹴飛ばした。
「おのれ!裏切り者め!このような絵を描きおって、どうかしておるわ!わしに隠れて、こんなところでキリシタンの絵を描いておったとは、まんまと騙されたわ!」
リノは黙ったまま、松倉を睨みつけた。
「何だその顔は?わしに楯突こうとでも言うのか?よかろう。石高を増やす機会についてずっと考えていたのだ。もうそろそろかと思ってな。これを機にキリシタンも殲滅してやるわ!!」
「それだけは、お許しください!これ以上は皆、飢えて死んでしまいます!」
「何だ?この女は?表をあげよ」
ルウはこわごわと顔を上げ、松倉をまっすぐに見た。
「美しい面立ちをしておるな。ちょうど良い。松倉家へ上がれば、済む話ではないか。そうすれば、お主の家は飢えることもなかろう。どの家も同じように、人を減らせば何とかなるものではないのか?のう?」
松倉がそう言うと、家来の一人がルウの体に手を伸ばした。
しかし、次の瞬間、低く大きな声が響いたかと思ったら、その家来の腕が横から斬りつけられ、肩を落とした隙に腹へと突き刺した。リノが、ルウを守ろうと、腰に差していた刀を抜いたのだ。一瞬の出来事だった。
「ひえええ・・・!」
松倉は、リノの姿をまともに見る間もなく引き下がり、家来を引き連れて洞窟の入り口へと走り去って行った。
「リノ!何て事を・・・!ただでは済まんぞ・・・!!」

リノをそのまま島原へ帰すわけには行かず、ルウと一緒に益田家へ連れて帰った。
「四郎!一体、何があった・・・!」
益田は、俺たちの様子を見て察してはいたが、それでも松倉の家来の死体が洞窟に転がっていることを告げると、さすがにその顔からは、さっと血の気が引いた。
「側近を殺されたとあっては、松倉様もただでは済まされまい。下手をすると幕府からもお咎めを受けようぞ。我ら、皆殺しか、さもなくばこの土地を去らねばならぬかも知れん。リノ殿よ、島原の家が危ない。すぐさま、知らせるのだ」
「分かっております。しかし・・・!」
「天にまします我らの神よ・・!」
益田を始め、天草の他の連中も、そして松倉相手に刀を抜いたあのリノでさえも、手を合わせ、祈り始めた。
「情けない・・・!!!どうしてお前らはいつもそうなんだ!神に祈ったって、何も変わりはしない。奪われたら、取り返すんだ!神様なんて最初からいないんだよ!」
俺がそう言うと、益田がすっと立ち上がり、まっすぐに目を見てこう言った。
「私たちは常に信仰と共に生きてきた。それが運命だったからだ。私は、お前の、お前の出自を、その運命を、一度でも否定したことがあるか。お前にはお前の運命があった。そして、私たちには信仰という名の運命があるのだ。誰も、人の運命を否定することは出来ない」
「だが、運命に立ち向かうことは出来るはずだ!神が助けてくれないのなら、自らの手で立ち上がるべきだ!神の助けがないのなら、立ち上がることこそ、神の望んでいることではないのか?!」
「四郎殿・・・!!」
「俺はここで、ずっとみんなの暮らしを見てきた。そうさ。俺はここへ来る前は、倭寇だった。ここの連中と比べりゃ、まともな生き方じゃなかったろうさ。だが、だからこそ世の中の厳しさってもんを知ってるのさ。それに、こんなのは間違っている。こんなにまっとうに働いて、それを全て、松倉に持ってかれるなんて事は間違っている。俺たちは間違った事を正すべきだ!」
俺が自分の過去を口走ったおかげか、怖がっている者もいるようだった。だが、そこにいたほとんどが祈りを捧げていた両手を離し、床に手をついて悔しそうにしていた。
「そうだ・・・。神様がお望みなら、我らは勝利を手にするだろう・・・!神の思し召しを得て、我らは立ち上がるのだ!」
俺の傍に立っていたリノが、振り絞るような声で、そう言った。すると、リノのその言葉に賛同するように、皆次々に立ち上がった。
「我らがメサイアよ!救い給え!我らに力を与え給え・・・!」

天草、そして島原から、キリシタンなど松倉に不満を持つ多くの人が集まり、陣を固めた。士気の低い松倉の兵は、我らの軍に手も足も出なかった。
益田に推され、俺が大将となり、そして副大将はリノだった。俺は倭寇の時分に覚えた知識と益田からの助言により、戦略を練った。
陣にはリノの描いた旗が掲げられ、そこには最後の晩餐でキリストから弟子たちに振る舞われた、聖杯と聖餐が描かれていた。リノの旗がはためく様子を見ると、心が強くなった気がした。
飯を運んでくる女子衆には、ルウもいた。彼女の姿を見つけると心が和んだ。それだけが、束の間の休息に思えたほどだった。
「ルウ。家の者は息災か」
「四郎様。ありがとうございます。皆、大将である四郎様こそ、神がお与え下さった救世主と申しております」
「そうか」
心の中では、神の遣いのように言われる事が、俺らしからぬ事と思えた。しかし、この天草や島原の人間の信仰心の厚さ、その純粋さ、そして感情の自然さには、次第に魅入られてもいた。それに、ルウはいつ見ても美しかった。皆の心の支えが神である如く、それが心の支えとなっていた。俺にとっては、ルウこそが神だった。

リノは絵師ながら、物をよく知っており、中でも人の心を読む術に長けていた。松倉やその兵が何を考えているのか、手に取るように理解しており、しばしば感嘆せずにはいられなかった。
「どうしてリノは、そんな風に相手の心を読むのだ?」
「倭寇の頭領だったのなら、四郎殿も分かっておいででしょう。敵が何に恐怖しているのか、結局はそれが分かれば良いのですから」
「そもそも、禁じられたキリシタンの絵を描き続けるなど、よほど強い心の者でなければ出来ぬ。なぜ、そのように強くいられるのだ?」
俺がそう言うと、リノは急に黙った。
「私は強いのではない。ただ臆病なだけなのだ。だから人の心が、自分の心のようにわかる。人の心の弱さが分かるから、人の心が読めるのだ」
リノはそう言うと、暗い顔をしたまま、部屋へ戻って行った。それは、リノが時折見せる、よそよそしさだった。その振る舞いにはいつも、リノの全てを理解することはできないと思わされた。

しばらくは有利に事を勧められたが、次第に雲行きが怪しくなってきた。松倉が苦戦を強いられ、一向に収拾のつく様子がないことを聞き及んでか、幕府軍が来るという情報が入ったのだ。松倉相手であれば、勝利の見えた矢先だったので、それを知った者は皆明らかに落胆していた。
幕府軍の到着は思ったより早かった。そして、口に出すのがはばかられるほど、松倉の軍とは比べものにならぬくらいに強大だった。
「それにしても、何かおかしい。こちらの動きを全て先読みしているようだ」
益田が不意にそう言った。確かに、いくら幕府軍と言えど、動きが良すぎる。
「内通者がいる、としか思えない」
最後のその言葉に、全身に衝撃が走った。
この中に、裏切り者がいる。
信仰に厚い、この者たちの中に、一体どんな裏切り者が潜んでいると言うのか・・・。
「内通者の身元は」
「分からぬ。だが、すぐに切り捨てるわけにはいかない。きっと何かわけがあるに違いない。忍びの心得のある者に探らせている。判明次第すぐに伝えよう」

もしこの中に本当に裏切り者がいるなら、俺は自分の手で始末したかった。こちらに勝ち目があるなら、その者は裏切る必要がないからだ。それに、幕府軍に内通している者がいると、すぐにわかるほどなのだから、内通者は俺に近い人物の筈だった。それが益田でないとしたら、あとは一人しかいない。俺は、すぐさまリノの部屋へ向かった。
誰もいない部屋へ入ると、いつもの油の匂いがした。それは顔料を溶かすための油の匂いで、初めて会った時からずっとこの匂いがした。
文箱の中を見たが、裏切りの証となるようなものは何も出てこなかった。しかし、畳の縁に頻繁に動かした形跡のあることに気付き畳をずらすと、その下から手紙が何通か出てきた。折り皺からして、矢文のようだ。中身を読むと、それは明らかに、リノと幕府軍が双方やり取りをした内容の文だった。
「何をしている」
後ろでリノの声がした。その気配に気づいてはいたが、そこから動こうという気にはならなかった。
「なぜ裏切った」
「四郎殿、これは裏切りではない。私は一番の策を考え・・・」
「一番の策だと?すでに幕府軍により、我らは食料を調達するのが難しくなっているのだぞ・・?それは、お前のこの手紙のせいではないと言うのか?」
「幕府軍になど、勝てるはずもない。だから、和解を持ちかけたのだ」
「和解だと・・・俺に断りもなく・・・!」
「わかってくれ。お願いだから私の話を聞いてくれ」
「自分たちを苦しめた人間達に、屈しろと言うのか!」
「あなたは言った。何もしないでは神も救ってはくれないと。だが、私は分かったのだ。それがどんなに過酷であろうと、自らの運命は受け入れるべきだ。所詮、人は運命からは逃れられない。それこそが神の教えなのだ。そうでなければ、神を信じ続けることなど出来ない!」
「運命・・・だと・・・?」
「この生の苦しみが私の運命なら、それに従おう。そして、四郎殿は救世主としての運命を全うするだろう。それで我らは皆、救われるのだ」
俺には、リノが何を言っているのか丸で分からなかった。
「幕府は・・・四郎殿が幕府軍へくだるなら咎めはないと言っている。松倉は罰せられ、私たちは助かるのだ。だから・・・」
体中がこわばって、リノの話はもはや耳に入ってこなくなった。
俺が幕府軍にくだる事で、俺たちは助かる。俺たちが助かるのに、俺は幕府軍にくだる。俺は幕府軍にくだったらどうなるのだ?リノの言う”私たち”に”俺”は含まれていないではないか。
そこで俺は、全てを悟った。

俺が死ねば、皆救われる。

最初からそのつもりで、俺を受け入れたのだ。

異質で、信仰を持たない俺を。

何も知らない子羊を生贄として差し出すように、俺を神へ差し出す。それこそが彼らの信仰なのだ。

メサイア!救世主!磔にされたイエスキリストよ!
俺にも、その運命を辿れと言うのか・・・・!!

・・・・・・・

リノの部屋を出て、皆のところへ戻った。リノの裏切りについて知っているのは俺だけの筈だ。
「内通者が誰か分かった」
そう言うと、益田がすかさず俺を制した。
「言葉に気をつけなさい。皆の心を無闇にかき乱すことを言うべきではないぞ」
「もしやあなたは、本当は知っているのではないか?裏切り者が誰なのかを」
「落ち着きなさい。心の弱さは誰にでもある。私にも、お前にも。長く不幸に堪えた者は、勝利を目の前にして必ず臆病になるものだ。だから、誰かの心が弱いからと言って、勝利に怯えて裏切ったからと言って、その者を責め立てることは出来ん。裏切り者が誰であっても、お前は冷静に対処しなくてはならないのだ。デウス様なら、その者をお許しになるはず・・・」
「裏切り者が許されるのだとしたら、その判断を下すのは、神じゃない。この俺だ。彼を許すべきだと言うなら・・・、俺がこの身に代えて許すまでだ」
立て篭っていた城の、無数にある扉を開き、多くの人の視線をくぐり抜け、俺は外へ出た。
「おい!誰か出てきたぞ!」
「構え!!」
発砲する音が聞こえたかと思うと、すぐに衝撃が襲ってきた。だが、予想していたよりもずっと体の痛みは少なかった。地面に倒れこんで目を開けると、俺の体にルウが抱きついていた。
「四郎様・・・」
「・・・ルウ!!」
ルウの体を抱き寄せた後、手のひらを見ると、血で真っ赤に染まっていた。
「撃てー!!」
ルウを抱きしめたまま、次の衝撃が襲ってきた。酷い激痛の果てに体の力が抜けていくのを感じた。
目を閉じた暗闇が次第に明るくなり、体全体が、そして周りの風景が、光に包まれた。

・・・・・・・

四郎は幕府軍の銃撃により亡くなった。ルウも同じ銃撃戦の中で亡くなった。
しかし、その後も戦いは止まず、全滅。天草でも島原でも多くの人が亡くなった。

リノは幕府側について、その後も生き延び、後世に真実を伝える役割を担った。
愛する者を失い、彼は想像以上の耐え難い苦痛を味わうこととなった。そして、全て終わった後に、ようやく自らの罪の重さに気がついた。
皆を死へと導いた罪の十字架を背負い、生き抜くことにしたのだ。

リノの描いた最後の晩餐は、現代もまだこの日本のどこかにあるらしい。

おしまい

凱旋門

雪組公演「凱旋門」見てきました。これまで、轟悠さんの生のお姿を拝見したことがなかったので、トップのぞ様(望海風斗さん)の出番が少ないらしいとはいうものの、普通に楽しみにして見ました。感想としては、個人的には好みでした。確かに、のぞ様のラヴィックは見てみたいですが、ああいう脇役でも存在感の持てるのぞ様に感動しました。とは言え、やはりナレーションの様なセリフが多かったので、キャラを膨らませて今回は書いています。かなりネタバレしてますので、ストーリーをご存知なく、観劇のご予定のある方は、ご注意ください。のぞ様がんばれー!!

ラヴィックに最初に会ったのは、私の住むホテルアンテルナショナルの中庭でだった。金髪の、映画俳優かと見間違えるような背格好をして、その割に表情は暗く、目をひく姿だったから、よく覚えているのだ。
私は、ナイトクラブ「シェエラザード」のドアマンをしているのもあって顔が広い。このパリには大勢の友人がいるし、こう言ったことには心得があるつもりだ。だから、最初にラヴィックを目にした時、すぐさま話しかけないほうが良いと分かった。だが、このホテルに長く滞在しているようだと知って、女主人に彼について尋ねてみたのだった。
「まあ、ボリスさん。ご機嫌いかが。今日はお早いのね。まだ空にはお日様が上がっててよ」
「随分な言い様だね。宵っ張りは認めるが、俺にも太陽を見たい日はあるのでね。ところで、2階に滞在しているあの男性は・・・」
「ああ、ラヴィックさんのことかしら?ボリスさんなら仲良くなれるかも知れないわね」
「ラヴィック?アメリカ人かい?」
「いいえ。ドイツからよ。旅券もビザもないわ。本当の名前は・・・そんなことはいいわね。私からお教えできるのは、これだけよ」
「ありがとう」
女主人は、私と同じ亡命者の多く滞在するこのホテルの住人に、私が一人残らず声をかけていることをよく知っていた。私の性分なのだろう。祖国ロシアの同胞でなくても、生き延びる手立てとなるよう、自分から手を差し伸べずにはいられなかった。
ラヴィックとは部屋が近かったのだが、向こうは昼間に出かけているらしく、夜に仕事をしている私と偶然会うことは稀だった。だから、次に出会った時こそと決めて、私は彼に声をかけた。
「俺は、亡命ロシア人のボリスという。8区にあるシェエラザードという店で働いているから、ぜひ来てくれ給え。俺は20年近くこのパリで生活をしているし、同じような境遇の人も店にはたくさん来る。君も、嘘偽りなく楽しめるといいが」
「シェエラザード・・・千一夜物語か」
「気取った店じゃない。あいにく有名人が来るような店じゃないんでね。俺はドアマンをしている。ロシアの外套をまとって、店の前に立っているんだ。場所はこのホテルの住人なら誰でも知ってる。俺と一緒に来てくれてもいいが」
ラヴィックはフランス語がよく聞き取れなかったのか、最初は怪訝そうな顔をしていた。だが、短くとも会話を交わせたおかげか、すぐに顔がほころんだ。

それからしばらく、ラヴィックの姿を見ることはなく、店で顔を見ることもなかった。
私は毎日機嫌よく客を店に迎え入れ、仕事が終われば気の済むまで酒を飲んだ。少しでも気の合う相手がいれば男でも女でも、遊び仲間や、時に恋人として、夜通し一緒に過ごした。こんな生活を10年以上も続けていれば、自分がロシア人などではなく、かといってパリジャンでもない、何者でもないような、そんな気がした。けれど、日々を生きていくには十分すぎるほどに、それで気が紛れるのだった。
ある日、深夜にふと持ち場を離れて店に入ると、薄暗いホールの隅にラヴィックが一人で酒を飲んでいるのを見つけた。私はドアマンだから、来た客を見逃すはずはないが、どういうわけか気がつかなかった。ラヴィックは、沈んだ面持ちで誰の目にも明らかに鬱屈し、とても正常には見えなかった。
「やあ。来てたのなら、声をかけてくれればよかったのに。この店のおすすめを聞いたかい。準備させるよ」
「いや、食事をする気分じゃない。ありがとう」
ラヴィックは、機械のように私に返事をした。私も、彼のそのいかにも普通ではない様子をまるで無視して話しかけたのだから、当たり前だった。
彼はそのまま店が終わるまでそこに座っていた。だが、私が仕事の片付けをしている間に、先にホテルへ帰ってしまったようだった。
気になって、いつもなら寄り道を欠かさないところ、その日はまっすぐホテルに帰った。ロビーにも中庭にも彼の姿は見えず、そのまま部屋へ入ろうとすると、不意にラヴィックが現れた。
「ワインを買ってきた。中で飲まないか」
店では、座っていた時間の割に飲まなかったのか、ラヴィックは素面に見えた。私もめずらしく飲んでいなかったせいか、ラヴィックの持ってきた安いワインが、いつになくまずく思えた。
「ウォッカの方が良かったかな」
「いや、俺は十代でロシアを離れたから、いっそワインの方が馴染みだ。ウォッカは日常の酒じゃない」
「そうか」
ラヴィックは何か話したそうだった。亡命した人間にはよくあることだ。普通の人間、例えば亡命する前の自分なら、簡単に傷ついたりはしなかった。けれど今は、どうでも良いようなことでも、すぐに心折れてしまう。それで、自分にとって何が大事で、何が大事じゃないのか、だんだん分からなくなってしまう。それに、そんな何でもないことに心折れる自分が、何より情けない。
私たちは黙って静かに、そのまずいワインを飲んだ。このまま永遠に夜が明けないのではないかと思えてもきた。すると、ラヴィックが話し始めた。
「俺は、復讐を心に誓ったんだ。俺は、ナチスに追われて、ドイツを出てパリへやってきた」
「君の、元の職業は何だったのか聞いても良いかい」
「外科医さ。家は代々、医者だったから、それで外科医になったんだ。ある日、学生時代の友人の、ナチスから逃れる手助けをしたんだ。それで、捕らえられ、拷問され、それで・・・」
ラヴィックは、コップになみなみとワインを注いで、それを煽った。もっと強い酒を出してやりたかったが、彼は息もつかずに話を続けた。
「恋人を、恋人を人質に取られて・・・。でも本当に、友人がどこへ逃げたか知らなかったんだ・・!!それで、白状するもしないも、知らないものは吐けない。それで俺は見す見す彼女を・・・」
ラヴィックの話は、寒気がするほど悲惨だった。革命の折、内戦が起こったロシアでの話も、他の国から逃れてきた人々の話も、どれも悲惨なものばかりだったが、ラヴィックの話はズタズタにされた彼の心が、机の上にぶちまけられたような、そんな悲惨さだった。
「俺は、ロシアでは貴族だった。革命が起きて、早々にロシアを出たんだ。その後の革命や内戦もろくに知らず、こうしてここにいる。だが、ロシアで戦ってきた人間や、パリに邸を構えるような大貴族を見ていると、自分が幽霊に思える。ロシアにあったわずかばかりの領地と、ささやかな爵位がなければ、何の価値もない俺は、このパリでまるでゴーストのようだ。もし、こんなゴーストでよければ、君の復讐に協力したい。何でも言ってくれ」

それから、ラヴィックとは頻繁に会うようになった。私の勤め先であるシェエラザードは彼の行きつけとなり、その他にも一緒に出かけることが増えた。私も、一晩限りの友人や恋人と過ごすより、ラヴィックと過ごした方が楽しいと感じるようになっていた。
そんなある日、ラヴィックは若い女性を伴って店にやってきた。初めて見る顔だった。彼によれば、彼女はパリに来て間もないイタリア人で、訳あって仕事を探しているとのことだった。私の顔の広さは、周知のことだったから、ラヴィックも最初に頼ってきてくれたのだろう。彼女が仕事を探している理由は、彼女の手前すぐに話してはくれなかった。彼女の名はジョアンといった。
「経験がなければ、長く続けられる仕事じゃないかも知れないが、シェエラザードでちょうど歌手を探していたところだ。その仕事でよければすぐにでも紹介できるが、ジョアンさんは如何かな?」
ジョアンは目鼻立ちのはっきりとした美人で、たどたどしいフランス語が好感の持てる、不思議な魅力を持った女性だった。店のオーナーも彼女のその魅力に気が付いたようで、経験のない彼女の採用を、即決したほどだった。
それからしばらく、ラヴィックとジョアンの恋の様子を見守るような日々が続いた。ラヴィックの復讐心も、少しなりを潜めているようにも見えたが、二人で飲んでいると、そうでもないことがひしひしと伝わってきた。ラヴィックは、ジョアンとの恋の行方と、復讐を遂げることと、うまく天秤にかけて考えることができないようだった。
そんな中、ある日突然ラヴィックが消えた。ラヴィックが自分から仕事の話をすることは、ほとんどなかったが、知り合いのつてで手術の執刀をしているらしいことは分かっていた。しかし、彼は旅券すらなく、このフランスで医師免許などあるはずもない。何らかの違法性のある行為か何かを、しているのは明らかだった。だから、彼が突然姿を消したとしても、何も不思議はないし、そもそも亡命している人間ならいつ何時、そうなってもおかしくはないのだった。
けれど、亡命してパリにやってきたわけではないジョアンにとっては、それが理解不能だったらしい。彼女は、ラヴィックが消えしばらくすると店を辞め、またたく間に姿を見せなくなった。そのまま、数ヶ月が過ぎた。

仕事に行こうとしてホテルの中庭を抜けると、女主人が私に声をかけてきた。
「ボリスさん。ラヴィックさんが戻ってきたわ。不慮の事故で人助けをしたから、警察に尋問されて、それで身を隠してたんですって。悪いことは何もしていないそうよ。何も」
ラヴィックの部屋を尋ねると、彼はベッドに横たわり天井を見つめていた。私が見下ろすと、彼は私の顔を見ずに話し始めた。
「医者は、患者の体だけを治すんじゃない。患者の顔を見て、話をして、そうやって病を癒すんだ。高名な医者の代わりに、手術だけを請け負っている私は、医者じゃない。私はもう医者じゃない」
ラヴィックは、技術的に不足があるが、上流階級に属する医師の代わりに、手術を執刀してパリでの生活費を稼いでいると、私に打ち明けた。医者ヅラをして人助けをしたが、その結果憲兵に追われ何ヶ月も身を隠している間、そんなことばかり考えたと言った。
「ボリス、ジョアンに会いたい。いま店に行けば、彼女に会えるかい?」
私は、ジョアンがもういないことを伝えるのに、胸が張り裂けそうな思いがした。
本当は、ジョアンが店にたまたまやってきた映画俳優に見初められ、その男の手助けで仕事とアパートを得ていることを知っていた。だが、ジョアンのいるアパートは、ここから少し離れているし、よほどの偶然でもなければ、この広いパリで二人が再会することもあるまい。真実を知ればラヴィックが余計に傷つくだけだ。
「ジョアンは店を辞めたよ。君が帰ってくるのをずっと待っていたんだけどね」

ヨーロッパ各地でファシズムが台頭してくると、この花の都パリも他人事ではなく、にわかに騒がしくなった。パリからさらに逃れんとし、様々な情報が行き交い、隠していた気持ちや思想を胸に、ある日突然誰かが姿を消すことも日常茶飯事となり始めた。パリが侵略されれば、どんな目に会うか分からない。祖国でひどい目にあった人間ならなおさら、このパリから逃げ出す算段を抜かりなくするのだった。
私の勤めるナイトクラブ「シェエラザード」は、私と同じ亡命ロシア人がオーナーだった。彼は、ロシア帝国での料理人を雇い、元公爵夫人をホールで働かせ、同胞に生きるすべを提供していた。ある日、オーナーが私を呼び出し、こう言った。
「この年齢だし、今更パリを離れるつもりはない。だが、君はまだ若い。我々が祖国ロシアへ戻るのは、もう難しいだろう。アメリカへ行くならば、新たな活路を見出せるはずだ。もしその気があるならいつでも言ってくれ。同行人がいるなら、ビザも用意できるだろう。君ならば十分に、うまくやれるはずだ」
アメリカ、自由の国。様々な人種が行き交う、新しい土地。アメリカへ行けば、二度とロシアへは帰れないだろう。だが、ロシアへ帰れないことなど、もう20年も前から分かっていることだ。オーナーも、料理人も、公爵夫人も、誰も彼もが、ロシアへは帰れない。そもそも、我々が帰りたいのは、ロシア帝国であって、今のロシアではない。それは分かっている、分かってはいるが、私はオーナーに、アメリカ行きについて、即座に返事をすることが出来なかった。
ラヴィックの部屋を尋ねたが、彼はいなかった。女主人に尋ねても行き先は分からない。彼は本来分かりやすい男で、時にその喜怒哀楽は手に取るようだった。嬉しそうにしていれば喜んでおり、泣いていれば悲しいのだ。しかし、復讐や、誇りなき金だけのための仕事、恋人の裏切りは、彼の表情や行動を読み取りづらくしていた。今、ラヴィックがどこで何をしているのか、見当もつかない。
私は、急にいてもたってもいられなくなり、街へ出た。

祖国ロシアは、どんなところだったろう。
そこに住まう人々は、どんな人だったろう。
ここパリは、私の故郷ではない。
だが、私にとって街といえばここパリしか思い浮かばない。
顔なじみは、みんなパリにいる。
パリを後にすれば、私には何が残るだろう。
元々何もない私に、一体何が残るというのだろう。

ナイトクラブのドアマンの制服は、ロシア風のデザインになっている。もし、この制服を着てロシアに帰れば、どんなに滑稽なことだろう。偽物の、時代遅れのロシア風の衣装をまとって、フランス語を話す私は、滑稽で哀れな芸人のようだろう。

こんな時には、強い酒でも煽っていたいが、おおよそウォッカなど飲む気にはなれない。だが、選べる酒など私にはない。ウォッカを瓶から直接飲んで、私は酔っ払った。

気がつくと、薄暗い部屋の中で、夜か昼かも分からなかった。仕事には行かねばならないし、私は起き上がって支度をした。ホテルの中庭をのぞくと、ラヴィックがタバコを吸っていた。
「ボリス!いたのか。返事がないから出かけているのかと思ったよ。今話せるか」
ラヴィックは、私の返事を待たずに部屋へ来た。タバコをふかしながら、妙に浮ついた空気をまとっているように見えた。
「復讐のチャンスがやってきた。俺を拷問にかけ、恋人を手にかけたナチスの将校がパリへやってくる」
「パリへ・・・。近づくチャンスがあると言うのか」
「奴はそうは出世していないようだ。大した護衛もなく、それでいてパリの街を楽しむくらいの余暇は与えられていそうだ。おそらくは、俺が手を出すくらいの時間は出来そうだ」
このところの沈んだ様子が嘘のように、ラヴィックははつらつとして見えた。そして、コートから小型拳銃を取り出して机の上に置いた。
「ボリス、君には連絡役になって欲しいんだ。俺は奴が来るだろう店を探り、奴に近づく。だから、俺がつけ狙っていることを、どうしても知られちゃまずいんだ。奴の行動を知らせて欲しい。直接手を下すのは、この俺だ」
さすがの私も、スパイ行為など、したことはなかった。だが、ある程度は息を潜めて生きてきたことや、知り合いも多く、このパリで生き抜いてきたことが功を奏し、将校の挙動は面白いくらいに、手に取るように把握できた。ラヴィックへ密かにそれを伝えると、彼は行動に出た。まさに完全犯罪だった。
異国の地で行方不明になった将校について、いまパリを侵略せんと伺っているナチスがどれほどの関心を持つのかは、分からなかった。しかし、復讐を遂げたラヴィックは、いかにも晴れ晴れとして、そんなことは気にならないようだった。
人を殺した人間が、確実に口数を減らすことを、私は知っていた。だが、ラヴィックは私が事前に想像していたほどには、変わらないようだった。このまま上手くいけば、もし上手くことを運べれば、もしかしたらラヴィックは私と共にアメリカへも来そうな気がした。だが、そうはならなかった。

どこかで見たような顔の男が、突然ホテルにやってきて、女主人にラヴィックの居場所を聞いた。私はその場に居合わせて、ラヴィックが部屋にいることを知っていたので、すぐに引き合わせた。男は気が動転しているのか、顔面は蒼白で、言っていることは辻褄が合わず、訳が分からなかった。
「ジョアンが、私の撃った弾に当たって倒れたんだ。きっと、つまずいて転んだんだ。でも、血が出てる」
よく見ると、男は室内用のガウン姿だった。そして、ジョアンに会いに店へ来ていた、あの映画俳優だった。ラヴィックは、それを知ってか知らずか、そのまま男を伴ってホテルを出て、ジョアンがいるというアパートへ向かった。私もそれに同行した。
部屋へ入ると、ジョアンがソファーで横たわっているのが見えた。床には黒い拳銃が落ちていて、ジョアンの胸元は、血で真っ赤に染まっていた。私は、映画俳優の胸ぐらを掴んで問いただした。彼は泣きながら、最近密かにラヴィックがジョアンに会いに来ているのを知って、嫉妬で気が狂って銃を構えて彼女を問いただした、ただそれだけだ、と言った。ただそれだけじゃないだろうと言うと、彼は自分が発砲したと言って、そのまま泣き崩れた。
ジョアンの真っ赤に染まった胸元を見れば、彼女が死の床にあるのは明らかだった。私は扉を閉めて、外で待った。ジョアンとラヴィックを二人にしてやりたかった。

ジョアンの死後、ラヴィックは再び復讐を遂げる前のように、生きる気力を無くしてしまった。そして、みるみるうちにパリも暗くなり、ホテルアンテルナショナルにも、憲兵がやってきた。旅券もなく、不法滞在となっている者を、収容所へ送るためだった。
私はラヴィックの部屋へ行き、彼に声をかけた。
「ラヴィック、俺とアメリカへ行かないか。一緒に逃げよう」
「俺は君と違って旅券もビザもない。行けるはずない」
「そんなことはない。ここにビザがある。もう直ぐこの部屋にも憲兵が来てしまう。今決断すれば、パリを出られる」
だが、ラヴィックは笑って、そんなものがあるなら、ホテルにいる他の若い人に譲ってあげて欲しいと言った。別れの挨拶をラヴィックは嫌がった。嫌がるラヴィックを、私はひしと抱き寄せた。
他の住人たちと共に連行されるラヴィックを見送ると、私はひとりホテルに残された。女主人は、隣で泣いていた。
「ボリスさん。パリはどうなるのでしょう。パリはこれからどうなるのかしら」
「あなたなら、よくお分かりでしょう。戦争になるんですよ。またしても、生き延びなければなりません」
「あなたはこれからどうするの」
ホテルには人がいなくなって、しんと静まり返っていた。ここで収容所送りにならなかったのは、女主人と私だけだったのだ。どうして私は、こんなホテルに今まで住み続けていたのだろう。旅券もなくさまよっている人々を見て、心ひそかに優越感に浸っていたかったのだろうか。いや違う。そうじゃない。私は常に、ここではない何処かへ、行きたがっていた。いつだって、逃げる算段をしていた。しかし、もはやその必要はない。
「もう泣かないでください。あなたらしくない。俺はここにいます。戦争が終われば、ラヴィックもここへ戻ってくるかも知れない」
もし、ラヴィックが収容所から戻ってくることがあれば、いや戻ってきてくれなきゃ困るのだ。そうでなければ、我々も生き延びられはしまい。ラヴィックがパリへ戻ってきた時のためにも、俺はここにいなければならない。このパリに。
これから戦争が始まれば、このホテルも再び受け入れるべき人で溢れかえることだろう。同胞を助けるように、お互い支え合えるように、ここにとどまろう。戦争が終わるその日まで。

おしまい

ウーマンオブザイヤー

ちぎさん(早霧せいなさん)主演ミュージカル「ウーマンオブザイヤー」見てきました!ちぎさんの演技力の光る、とても良いミュージカルでした。初演は30年以上も前の演目ですが、古びれた印象もなく、面白かったです。もう千秋楽を終えた後なので、見た方は内容を思い出しつつ、見なかった方は美しいちぎさんの様子を思うかべつつ読んでいただければと思います。
主人公テスが、夫サムと喧嘩別れした後、テス自らがサムに会いに行くシーンがあったのですが、喧嘩のさいに怒り狂っていた割に妙にしおらしいなぁと思い、喧嘩してからサムに会いに行くまでの彼女の気持ちを書いてみました。
どうぞ、よろしくお願いします!

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「重要な用事なんて、あなたにある訳ないじゃない!」
部屋を出て行こうとするサムに私がそう言うと、彼は口を閉ざし、そしてウーマンオブザイヤーの受賞者の控え室を出て行った。彼がドアを閉めた音は、いっそう私の癪に障ったので、つい怒りをぶちまけてしまっていた。
「私はウーマンオブザイヤーの受賞を楽しみしていたのに!あの男のせいで何もかも台無しよ!」

私はテス・ハーディング。朝のモーニングショーでキャスターを務めるジャーナリストだ。キャスターとしても、ジャーナリストとしても、そのキャリアは華々しく、誰に対しても誇らしげに振舞って申し分のないものだ。でも、その振る舞いが、幾分か尊大に見えたのかも知れない。いつも気を付けていたつもりだったけれど、私の尊大さが、彼にも伝わっていたのだろうか。
子供の頃から、大人に囲まれて育った。父は外交官だったので、東ヨーロッパを移住しながら過ごした子供時代だった。大人に紛れていれば英語で話しかけて貰えたから、今にして思えば、無意識のうちに大人の集まる場所へ行きがちだったのかも知れない。そのせいか、あまり物怖じせず発言出来るようになった。そもそも、漫画家である彼と出会うきっかけとなった、私の「漫画なんて低俗」発言も、この性格のせいだ。
好奇心を隠さずに、比較的大胆に行動することが出来る。それは誰しもが持つ性質ではなく、特別なものなのだと知るようになった。そうして私は、ジャーナリストを志し、ニューヨークでキャスターをつとめるに至った。でも、そんな大胆さすらも、彼にとっては、図々しいばかりだったのかも知れない。
私が成功したことは、幸運以外の何物でもなかっただろう。ただ、自分が何の努力もせず今の地位を手に入れたとは思われたくはない。そんな努力すらもハナにつくと言うのなら仕方がない。それでも、持ち得る才能を十分に発揮できるよう努力し、生き抜いてきたと、胸を張って言える。
私のしてきた努力。でも、その正体はいったい何だったのだろう。こうして、愛すべき人と言い争いをし、一人残された自分を振り返ると、それらの努力は虚しく、何の意味もなかったような気さえする。しかし、無駄な努力を積み重ねたのだとすれば、こうしてウーマンオブザイヤーを受賞することもなかっただろうし、実際には何らかの意味があったはずなのだ。
サムを最も苛立たせたのは、私のどんな言葉、どんな振る舞いだったのだろう。
ずっと考えているけれど、どうしても分からない。どれもこれも、彼の気に障ったように思えて、原因を特定するのは難しかった。やはり私の尊大な態度が、彼の気に障ったのだろうか。でも、この人物こそと思う相手には、いつも慎重に振舞ってきた。自分の夫ともなれば、最重要として考えてきたはずなのだ。一体私は、何に失敗したと言うのだろうか。

もしかするとこれは、今の私には分からない問題なのかも知れない。私だって、サムを完璧な夫と見なしている訳じゃない。だから、私が完璧な妻でなくても許されるだろう。それにも関わらず、私はいつも自分は完璧だと思ってしまっている。これでは、答えが出る筈もない。
これから私は、彼に会いに行く。
私は彼に、何と言うつもりなのだろう。
私は彼に、何を望んでいたのだろう。
彼は私に、どうして欲しかったのだろう。

彼がキャリアを捨てて自分のそばにいて欲しいと言ってきたらどうする?そんなの考えるまでもない。答えは「ノー」
キャリアを捨ててしまえば、私は私でなくなってしまう。そんなのは、論外だ。
だからもし彼が、私に変わって欲しいと望むなら、彼のことは諦めなければならない、でも・・・。
このドアを開ければ、その向こうに彼がいる。最低限のセリフは用意してある。だけど、結論までは用意できていない。
こんなのは、ジャーナリストとしての振る舞いなら、ありえないことだ。
答えのないまま、ドアに手をかける。ドアを開けると、彼が視界に入ってくる。彼が私を見る。最初に会った時の気持ちが甦える。
私は思った。彼を失いたくはない。
今これからの話し合いがどうなるかなんて、全く分からない。
だけど私は決意した。彼を決して失いはしないと。