凱旋門

雪組公演「凱旋門」見てきました。これまで、轟悠さんの生のお姿を拝見したことがなかったので、トップのぞ様(望海風斗さん)の出番が少ないらしいとはいうものの、普通に楽しみにして見ました。感想としては、個人的には好みでした。確かに、のぞ様のラヴィックは見てみたいですが、ああいう脇役でも存在感の持てるのぞ様に感動しました。とは言え、やはりナレーションの様なセリフが多かったので、キャラを膨らませて今回は書いています。かなりネタバレしてますので、ストーリーをご存知なく、観劇のご予定のある方は、ご注意ください。のぞ様がんばれー!!

ラヴィックに最初に会ったのは、私の住むホテルアンテルナショナルの中庭でだった。金髪の、映画俳優かと見間違えるような背格好をして、その割に表情は暗く、目をひく姿だったから、よく覚えているのだ。
私は、ナイトクラブ「シェエラザード」のドアマンをしているのもあって顔が広い。このパリには大勢の友人がいるし、こう言ったことには心得があるつもりだ。だから、最初にラヴィックを目にした時、すぐさま話しかけないほうが良いと分かった。だが、このホテルに長く滞在しているようだと知って、女主人に彼について尋ねてみたのだった。
「まあ、ボリスさん。ご機嫌いかが。今日はお早いのね。まだ空にはお日様が上がっててよ」
「随分な言い様だね。宵っ張りは認めるが、俺にも太陽を見たい日はあるのでね。ところで、2階に滞在しているあの男性は・・・」
「ああ、ラヴィックさんのことかしら?ボリスさんなら仲良くなれるかも知れないわね」
「ラヴィック?アメリカ人かい?」
「いいえ。ドイツからよ。旅券もビザもないわ。本当の名前は・・・そんなことはいいわね。私からお教えできるのは、これだけよ」
「ありがとう」
女主人は、私と同じ亡命者の多く滞在するこのホテルの住人に、私が一人残らず声をかけていることをよく知っていた。私の性分なのだろう。祖国ロシアの同胞でなくても、生き延びる手立てとなるよう、自分から手を差し伸べずにはいられなかった。
ラヴィックとは部屋が近かったのだが、向こうは昼間に出かけているらしく、夜に仕事をしている私と偶然会うことは稀だった。だから、次に出会った時こそと決めて、私は彼に声をかけた。
「俺は、亡命ロシア人のボリスという。8区にあるシェエラザードという店で働いているから、ぜひ来てくれ給え。俺は20年近くこのパリで生活をしているし、同じような境遇の人も店にはたくさん来る。君も、嘘偽りなく楽しめるといいが」
「シェエラザード・・・千一夜物語か」
「気取った店じゃない。あいにく有名人が来るような店じゃないんでね。俺はドアマンをしている。ロシアの外套をまとって、店の前に立っているんだ。場所はこのホテルの住人なら誰でも知ってる。俺と一緒に来てくれてもいいが」
ラヴィックはフランス語がよく聞き取れなかったのか、最初は怪訝そうな顔をしていた。だが、短くとも会話を交わせたおかげか、すぐに顔がほころんだ。

それからしばらく、ラヴィックの姿を見ることはなく、店で顔を見ることもなかった。
私は毎日機嫌よく客を店に迎え入れ、仕事が終われば気の済むまで酒を飲んだ。少しでも気の合う相手がいれば男でも女でも、遊び仲間や、時に恋人として、夜通し一緒に過ごした。こんな生活を10年以上も続けていれば、自分がロシア人などではなく、かといってパリジャンでもない、何者でもないような、そんな気がした。けれど、日々を生きていくには十分すぎるほどに、それで気が紛れるのだった。
ある日、深夜にふと持ち場を離れて店に入ると、薄暗いホールの隅にラヴィックが一人で酒を飲んでいるのを見つけた。私はドアマンだから、来た客を見逃すはずはないが、どういうわけか気がつかなかった。ラヴィックは、沈んだ面持ちで誰の目にも明らかに鬱屈し、とても正常には見えなかった。
「やあ。来てたのなら、声をかけてくれればよかったのに。この店のおすすめを聞いたかい。準備させるよ」
「いや、食事をする気分じゃない。ありがとう」
ラヴィックは、機械のように私に返事をした。私も、彼のそのいかにも普通ではない様子をまるで無視して話しかけたのだから、当たり前だった。
彼はそのまま店が終わるまでそこに座っていた。だが、私が仕事の片付けをしている間に、先にホテルへ帰ってしまったようだった。
気になって、いつもなら寄り道を欠かさないところ、その日はまっすぐホテルに帰った。ロビーにも中庭にも彼の姿は見えず、そのまま部屋へ入ろうとすると、不意にラヴィックが現れた。
「ワインを買ってきた。中で飲まないか」
店では、座っていた時間の割に飲まなかったのか、ラヴィックは素面に見えた。私もめずらしく飲んでいなかったせいか、ラヴィックの持ってきた安いワインが、いつになくまずく思えた。
「ウォッカの方が良かったかな」
「いや、俺は十代でロシアを離れたから、いっそワインの方が馴染みだ。ウォッカは日常の酒じゃない」
「そうか」
ラヴィックは何か話したそうだった。亡命した人間にはよくあることだ。普通の人間、例えば亡命する前の自分なら、簡単に傷ついたりはしなかった。けれど今は、どうでも良いようなことでも、すぐに心折れてしまう。それで、自分にとって何が大事で、何が大事じゃないのか、だんだん分からなくなってしまう。それに、そんな何でもないことに心折れる自分が、何より情けない。
私たちは黙って静かに、そのまずいワインを飲んだ。このまま永遠に夜が明けないのではないかと思えてもきた。すると、ラヴィックが話し始めた。
「俺は、復讐を心に誓ったんだ。俺は、ナチスに追われて、ドイツを出てパリへやってきた」
「君の、元の職業は何だったのか聞いても良いかい」
「外科医さ。家は代々、医者だったから、それで外科医になったんだ。ある日、学生時代の友人の、ナチスから逃れる手助けをしたんだ。それで、捕らえられ、拷問され、それで・・・」
ラヴィックは、コップになみなみとワインを注いで、それを煽った。もっと強い酒を出してやりたかったが、彼は息もつかずに話を続けた。
「恋人を、恋人を人質に取られて・・・。でも本当に、友人がどこへ逃げたか知らなかったんだ・・!!それで、白状するもしないも、知らないものは吐けない。それで俺は見す見す彼女を・・・」
ラヴィックの話は、寒気がするほど悲惨だった。革命の折、内戦が起こったロシアでの話も、他の国から逃れてきた人々の話も、どれも悲惨なものばかりだったが、ラヴィックの話はズタズタにされた彼の心が、机の上にぶちまけられたような、そんな悲惨さだった。
「俺は、ロシアでは貴族だった。革命が起きて、早々にロシアを出たんだ。その後の革命や内戦もろくに知らず、こうしてここにいる。だが、ロシアで戦ってきた人間や、パリに邸を構えるような大貴族を見ていると、自分が幽霊に思える。ロシアにあったわずかばかりの領地と、ささやかな爵位がなければ、何の価値もない俺は、このパリでまるでゴーストのようだ。もし、こんなゴーストでよければ、君の復讐に協力したい。何でも言ってくれ」

それから、ラヴィックとは頻繁に会うようになった。私の勤め先であるシェエラザードは彼の行きつけとなり、その他にも一緒に出かけることが増えた。私も、一晩限りの友人や恋人と過ごすより、ラヴィックと過ごした方が楽しいと感じるようになっていた。
そんなある日、ラヴィックは若い女性を伴って店にやってきた。初めて見る顔だった。彼によれば、彼女はパリに来て間もないイタリア人で、訳あって仕事を探しているとのことだった。私の顔の広さは、周知のことだったから、ラヴィックも最初に頼ってきてくれたのだろう。彼女が仕事を探している理由は、彼女の手前すぐに話してはくれなかった。彼女の名はジョアンといった。
「経験がなければ、長く続けられる仕事じゃないかも知れないが、シェエラザードでちょうど歌手を探していたところだ。その仕事でよければすぐにでも紹介できるが、ジョアンさんは如何かな?」
ジョアンは目鼻立ちのはっきりとした美人で、たどたどしいフランス語が好感の持てる、不思議な魅力を持った女性だった。店のオーナーも彼女のその魅力に気が付いたようで、経験のない彼女の採用を、即決したほどだった。
それからしばらく、ラヴィックとジョアンの恋の様子を見守るような日々が続いた。ラヴィックの復讐心も、少しなりを潜めているようにも見えたが、二人で飲んでいると、そうでもないことがひしひしと伝わってきた。ラヴィックは、ジョアンとの恋の行方と、復讐を遂げることと、うまく天秤にかけて考えることができないようだった。
そんな中、ある日突然ラヴィックが消えた。ラヴィックが自分から仕事の話をすることは、ほとんどなかったが、知り合いのつてで手術の執刀をしているらしいことは分かっていた。しかし、彼は旅券すらなく、このフランスで医師免許などあるはずもない。何らかの違法性のある行為か何かを、しているのは明らかだった。だから、彼が突然姿を消したとしても、何も不思議はないし、そもそも亡命している人間ならいつ何時、そうなってもおかしくはないのだった。
けれど、亡命してパリにやってきたわけではないジョアンにとっては、それが理解不能だったらしい。彼女は、ラヴィックが消えしばらくすると店を辞め、またたく間に姿を見せなくなった。そのまま、数ヶ月が過ぎた。

仕事に行こうとしてホテルの中庭を抜けると、女主人が私に声をかけてきた。
「ボリスさん。ラヴィックさんが戻ってきたわ。不慮の事故で人助けをしたから、警察に尋問されて、それで身を隠してたんですって。悪いことは何もしていないそうよ。何も」
ラヴィックの部屋を尋ねると、彼はベッドに横たわり天井を見つめていた。私が見下ろすと、彼は私の顔を見ずに話し始めた。
「医者は、患者の体だけを治すんじゃない。患者の顔を見て、話をして、そうやって病を癒すんだ。高名な医者の代わりに、手術だけを請け負っている私は、医者じゃない。私はもう医者じゃない」
ラヴィックは、技術的に不足があるが、上流階級に属する医師の代わりに、手術を執刀してパリでの生活費を稼いでいると、私に打ち明けた。医者ヅラをして人助けをしたが、その結果憲兵に追われ何ヶ月も身を隠している間、そんなことばかり考えたと言った。
「ボリス、ジョアンに会いたい。いま店に行けば、彼女に会えるかい?」
私は、ジョアンがもういないことを伝えるのに、胸が張り裂けそうな思いがした。
本当は、ジョアンが店にたまたまやってきた映画俳優に見初められ、その男の手助けで仕事とアパートを得ていることを知っていた。だが、ジョアンのいるアパートは、ここから少し離れているし、よほどの偶然でもなければ、この広いパリで二人が再会することもあるまい。真実を知ればラヴィックが余計に傷つくだけだ。
「ジョアンは店を辞めたよ。君が帰ってくるのをずっと待っていたんだけどね」

ヨーロッパ各地でファシズムが台頭してくると、この花の都パリも他人事ではなく、にわかに騒がしくなった。パリからさらに逃れんとし、様々な情報が行き交い、隠していた気持ちや思想を胸に、ある日突然誰かが姿を消すことも日常茶飯事となり始めた。パリが侵略されれば、どんな目に会うか分からない。祖国でひどい目にあった人間ならなおさら、このパリから逃げ出す算段を抜かりなくするのだった。
私の勤めるナイトクラブ「シェエラザード」は、私と同じ亡命ロシア人がオーナーだった。彼は、ロシア帝国での料理人を雇い、元公爵夫人をホールで働かせ、同胞に生きるすべを提供していた。ある日、オーナーが私を呼び出し、こう言った。
「この年齢だし、今更パリを離れるつもりはない。だが、君はまだ若い。我々が祖国ロシアへ戻るのは、もう難しいだろう。アメリカへ行くならば、新たな活路を見出せるはずだ。もしその気があるならいつでも言ってくれ。同行人がいるなら、ビザも用意できるだろう。君ならば十分に、うまくやれるはずだ」
アメリカ、自由の国。様々な人種が行き交う、新しい土地。アメリカへ行けば、二度とロシアへは帰れないだろう。だが、ロシアへ帰れないことなど、もう20年も前から分かっていることだ。オーナーも、料理人も、公爵夫人も、誰も彼もが、ロシアへは帰れない。そもそも、我々が帰りたいのは、ロシア帝国であって、今のロシアではない。それは分かっている、分かってはいるが、私はオーナーに、アメリカ行きについて、即座に返事をすることが出来なかった。
ラヴィックの部屋を尋ねたが、彼はいなかった。女主人に尋ねても行き先は分からない。彼は本来分かりやすい男で、時にその喜怒哀楽は手に取るようだった。嬉しそうにしていれば喜んでおり、泣いていれば悲しいのだ。しかし、復讐や、誇りなき金だけのための仕事、恋人の裏切りは、彼の表情や行動を読み取りづらくしていた。今、ラヴィックがどこで何をしているのか、見当もつかない。
私は、急にいてもたってもいられなくなり、街へ出た。

祖国ロシアは、どんなところだったろう。
そこに住まう人々は、どんな人だったろう。
ここパリは、私の故郷ではない。
だが、私にとって街といえばここパリしか思い浮かばない。
顔なじみは、みんなパリにいる。
パリを後にすれば、私には何が残るだろう。
元々何もない私に、一体何が残るというのだろう。

ナイトクラブのドアマンの制服は、ロシア風のデザインになっている。もし、この制服を着てロシアに帰れば、どんなに滑稽なことだろう。偽物の、時代遅れのロシア風の衣装をまとって、フランス語を話す私は、滑稽で哀れな芸人のようだろう。

こんな時には、強い酒でも煽っていたいが、おおよそウォッカなど飲む気にはなれない。だが、選べる酒など私にはない。ウォッカを瓶から直接飲んで、私は酔っ払った。

気がつくと、薄暗い部屋の中で、夜か昼かも分からなかった。仕事には行かねばならないし、私は起き上がって支度をした。ホテルの中庭をのぞくと、ラヴィックがタバコを吸っていた。
「ボリス!いたのか。返事がないから出かけているのかと思ったよ。今話せるか」
ラヴィックは、私の返事を待たずに部屋へ来た。タバコをふかしながら、妙に浮ついた空気をまとっているように見えた。
「復讐のチャンスがやってきた。俺を拷問にかけ、恋人を手にかけたナチスの将校がパリへやってくる」
「パリへ・・・。近づくチャンスがあると言うのか」
「奴はそうは出世していないようだ。大した護衛もなく、それでいてパリの街を楽しむくらいの余暇は与えられていそうだ。おそらくは、俺が手を出すくらいの時間は出来そうだ」
このところの沈んだ様子が嘘のように、ラヴィックははつらつとして見えた。そして、コートから小型拳銃を取り出して机の上に置いた。
「ボリス、君には連絡役になって欲しいんだ。俺は奴が来るだろう店を探り、奴に近づく。だから、俺がつけ狙っていることを、どうしても知られちゃまずいんだ。奴の行動を知らせて欲しい。直接手を下すのは、この俺だ」
さすがの私も、スパイ行為など、したことはなかった。だが、ある程度は息を潜めて生きてきたことや、知り合いも多く、このパリで生き抜いてきたことが功を奏し、将校の挙動は面白いくらいに、手に取るように把握できた。ラヴィックへ密かにそれを伝えると、彼は行動に出た。まさに完全犯罪だった。
異国の地で行方不明になった将校について、いまパリを侵略せんと伺っているナチスがどれほどの関心を持つのかは、分からなかった。しかし、復讐を遂げたラヴィックは、いかにも晴れ晴れとして、そんなことは気にならないようだった。
人を殺した人間が、確実に口数を減らすことを、私は知っていた。だが、ラヴィックは私が事前に想像していたほどには、変わらないようだった。このまま上手くいけば、もし上手くことを運べれば、もしかしたらラヴィックは私と共にアメリカへも来そうな気がした。だが、そうはならなかった。

どこかで見たような顔の男が、突然ホテルにやってきて、女主人にラヴィックの居場所を聞いた。私はその場に居合わせて、ラヴィックが部屋にいることを知っていたので、すぐに引き合わせた。男は気が動転しているのか、顔面は蒼白で、言っていることは辻褄が合わず、訳が分からなかった。
「ジョアンが、私の撃った弾に当たって倒れたんだ。きっと、つまずいて転んだんだ。でも、血が出てる」
よく見ると、男は室内用のガウン姿だった。そして、ジョアンに会いに店へ来ていた、あの映画俳優だった。ラヴィックは、それを知ってか知らずか、そのまま男を伴ってホテルを出て、ジョアンがいるというアパートへ向かった。私もそれに同行した。
部屋へ入ると、ジョアンがソファーで横たわっているのが見えた。床には黒い拳銃が落ちていて、ジョアンの胸元は、血で真っ赤に染まっていた。私は、映画俳優の胸ぐらを掴んで問いただした。彼は泣きながら、最近密かにラヴィックがジョアンに会いに来ているのを知って、嫉妬で気が狂って銃を構えて彼女を問いただした、ただそれだけだ、と言った。ただそれだけじゃないだろうと言うと、彼は自分が発砲したと言って、そのまま泣き崩れた。
ジョアンの真っ赤に染まった胸元を見れば、彼女が死の床にあるのは明らかだった。私は扉を閉めて、外で待った。ジョアンとラヴィックを二人にしてやりたかった。

ジョアンの死後、ラヴィックは再び復讐を遂げる前のように、生きる気力を無くしてしまった。そして、みるみるうちにパリも暗くなり、ホテルアンテルナショナルにも、憲兵がやってきた。旅券もなく、不法滞在となっている者を、収容所へ送るためだった。
私はラヴィックの部屋へ行き、彼に声をかけた。
「ラヴィック、俺とアメリカへ行かないか。一緒に逃げよう」
「俺は君と違って旅券もビザもない。行けるはずない」
「そんなことはない。ここにビザがある。もう直ぐこの部屋にも憲兵が来てしまう。今決断すれば、パリを出られる」
だが、ラヴィックは笑って、そんなものがあるなら、ホテルにいる他の若い人に譲ってあげて欲しいと言った。別れの挨拶をラヴィックは嫌がった。嫌がるラヴィックを、私はひしと抱き寄せた。
他の住人たちと共に連行されるラヴィックを見送ると、私はひとりホテルに残された。女主人は、隣で泣いていた。
「ボリスさん。パリはどうなるのでしょう。パリはこれからどうなるのかしら」
「あなたなら、よくお分かりでしょう。戦争になるんですよ。またしても、生き延びなければなりません」
「あなたはこれからどうするの」
ホテルには人がいなくなって、しんと静まり返っていた。ここで収容所送りにならなかったのは、女主人と私だけだったのだ。どうして私は、こんなホテルに今まで住み続けていたのだろう。旅券もなくさまよっている人々を見て、心ひそかに優越感に浸っていたかったのだろうか。いや違う。そうじゃない。私は常に、ここではない何処かへ、行きたがっていた。いつだって、逃げる算段をしていた。しかし、もはやその必要はない。
「もう泣かないでください。あなたらしくない。俺はここにいます。戦争が終われば、ラヴィックもここへ戻ってくるかも知れない」
もし、ラヴィックが収容所から戻ってくることがあれば、いや戻ってきてくれなきゃ困るのだ。そうでなければ、我々も生き延びられはしまい。ラヴィックがパリへ戻ってきた時のためにも、俺はここにいなければならない。このパリに。
これから戦争が始まれば、このホテルも再び受け入れるべき人で溢れかえることだろう。同胞を助けるように、お互い支え合えるように、ここにとどまろう。戦争が終わるその日まで。

おしまい